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戦時体制の深まりとともに、ラジオも普及。ニュースに、空襲情報に、そして玉音放送も。

 日本国内でラジオ放送が初めて行われたのは1925(大正14)年3月22日のことでした。その翌年、東京、名古屋、大阪の放送局を統合した社団法人日本放送協会が発足します(戦後のNHKとは別組織であり、NHKと訳することはありません)。この時は大都市周辺でしか聞こえず普及率は3%、36万件でした。このころのラジオは受信を申請して登録されると設置でき、受信料を支払う仕組みでした。
 1936(昭和11)年以降、録音放送もできるようになり、日中戦争が始まった1937(昭和12)年当時の普及率は25%程度。政府としても即座に全国へ放送できるラジオは重要として、地方局の設置や放送塔建設などを後押しします。ちなみに、長野県で長野放送局が開局したのは1931(昭和6)年3月8日のことで、日中戦争が始まった当時は普及率が13%でした。
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 戦争となると、放送の普及にも力が入るようになり、大日本連合青年団は1937年12月から「国民精神総動員」と題したパンフレットを作り、普及活動を展開しています。

雑誌「青年」付録で、各支部に一台の普及呼び掛け

 そして社団法人日本放送協会も、地方の有力者にDMを送り、普及に精を出します。

個人宛の勧誘の手紙
日中戦争に合わせての購入を奨めます
「有力な御家庭に」と持ち上げて伺うと強引に行きます。

 もちろん、ラジオを売る方もこれを機会とし「愛国」「報国」などの文字もちりばめて売り込んでいます。こうした工夫もあり、長野県では日中戦争開戦直後の13%に比べ1940(昭和15)年には30パーセントとなり、全国一の増加率を示しています。

武運長久も忘れてはいません
愛国ラジオも登場
さらに凝りたい人のために報国の部品も

 日本放送出版協会では、日中戦争の前の年から、ラジオテキストとして歌の歌詞と楽譜をまとめたものを発行していました。戦時下になって軍歌などが流れ出すと、当然そういう方向の歌も次々と収録されることになります。

地道に発行され続けた歌のラジオテキスト
「隣組」は1940(昭和15)年6月15日に発行されました

 一方、社団法人日本放送協会では、日中戦争開戦直後の9月に放送軍歌のみの歌集を2種類作りました。おそらく、もっと続いたことでしょう。

軍歌だけを集めたテキストは日本放送協会が

 そして、ラジオを聞き逃した人やもっと深く背景を知りたい人のために「放送ニュース解説」も、社団法人日本放送協会で発行しています。

永く続いた放送ニュース解説
戦線が膠着した1940年7月の目次

 さて、1940年といえば紀元2600年の年です。ラジオも記念の国史講座を放送したようで、その徴取用の歴代天皇を軸とした年表を発行しています。音だけで過ぎ去るラジオの欠点を、こうした印刷物で補いました。

広げるとでかい!
神武天皇からスタート、ですね

 収蔵品には、大蔵省が募集した「支那事変国債ラジオドラマ集」という冊子があります。日中戦争開戦の翌年、1938(昭和13)年5月に募集したものですが、放送されたかまでは確認できませんでした。

勇ましい表紙の国債売り込み用だジオドラマ集

 さて、1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争が始まると、主に南方が戦場になります。そこで聞きなれない地名を探せるよう、放送ニュース聴取用地図を日本放送出版協会が作りました。

南方を中心としたニュース聴取用地図
細かい地名もしっかり載っています

 また、開戦に当たっての東条英機総理大臣の演説や開戦の詔書などを収めた冊子「大詔を拝し奉りて」も重要として発行しています。

千古不滅の大放送と副題が

 そして米軍の空襲が日常になってくると、ますますラジオの重要性が高まってきます。米軍機がどこに来ているかをラジオの用語で判断できるように、軍管区情報解説要図として、地域区分や放送の意味を伝えるものが重要になってきます。

長野県は東部軍管区

 そして、ポツダム宣言受諾の玉音放送が1945年8月15日、9月2日に降伏調印。ただ、戦争は終わっても、その後もラジオは生活の一部。特に戦後、尋ね人の放送は、多くの人にとって支えとも悲しみともなる放送でした。

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