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太平洋戦争開戦時の子どもたちの思い

 長野県内の国民学校では、太平洋戦争開戦やシンガポール陥落を題材にして児童たちに作文を書かせ、1942(昭和17)年度末ころから、相次いでその成果をまとめた本が出来上がりました。信濃教育会がまとめた「大詔奉戴感激録」は、長野県全域の国民学校や中等学校などから集めた作品288編を掲載した、294ページの本格的なもので、ほかにも各学校やクラスでまとめた文集がありました。

 まず、大多数は開戦を喜び、米英撃滅に向けて勉強や貯金を頑張ることを決意しています。各家庭でも、うきうきした雰囲気があります。

 <ハワイ大海戦のニュースがあったので今度はうれしくて、うれしくて、ラジオに向かって兵隊さんありがとうと言っておじぎをしました。家の人たちは夢のようだといって居りました。「日本は神の国だから神様のおかげ様だ」とおばあさんはおっしゃいました。>=国民学校4年男子
 <うれしさのあまり、手をたたいてわが軍の戦果を喜んだ。そしてしみじみと「日本の海軍は本当に強いんだなあ」と思った。そして「天皇陛下の大みいづの下に暮らせるのを本当に幸福だなあ」と思った。>国民学校5年男子
 <ラジオが「日米英戦争が始まりました」と放送した。おとうさまは「とうとう戦争か。また戦争に行くかもしれない」とおっしゃった。ぼくがおとうさまに「日本が勝つ」としんぱいして聞いたら、おとうさまは「日本は負けない。アメリカやイギリスは支那より弱いからすぐに負けるだろう」とおっしゃった。>=国民学校3年男子

太平洋戦争開戦に「思わず大声で『日本勝った。ばんざい』」

 <どんなこんなにもしんぼうして、あのにくい米英をやっつけてくれようと思いました。母ちゃんがいつも「富子だけは男だと思っていたのに」と言いますことをつくづく思いだして、ほんとに私も男に生まれなかったことを悲しく思いました。それでもお国を思う心は同じであることも思いました。>=国民学校5年女子

 さらには、敵がパラシュートで降りてきたら殺してしまおうという会話が親子で平然と交わされています。

「いしころで顔のところをぶって殺してやろう」

 高学年になるほど先生の言うことを鵜吞みにして、節約のため教室のストーブの煙突を短くしたり、国債を買って銃後の務めを果たすと書いています。「日本は非常時である。私たちは力を合わせて働き国を守るが第一だ」と、大人の言葉がすっかり刷り込まれています。

 しかし、作文では戦争にひっかけて「だからしっかり勉強しなきゃ」という親の声が多いのが、何となく便乗のような気がして落ち着きません。それって、親が戦争に対してとても楽観的なんじゃないかと。これも一つの神がかり状態なのでしょうか。それとも他人まかせの現れでしょうか。

 一方で、少ないながらも戦争への不安を記した作文もあります。

 <ぼくは驚いて「アメリカとイギリスが日本へせめてきたら、日本負けるかもしれない」と思うと、もう胸がどきどきした。(略)僕は「戦争が始まってやだなあ」と思いながら顔を洗いに行きました。>=国民学校3年男子

戦争への不安を文集に残した教師の度量も立派

 <にいさんが、こんな小さい日本と、あの金持ちのアメリカやあの土地の広いイギリスと戦争なんかするとまけてしまうかもしれんと言いだしました。私はそのことを聞くとはっと思いました。心配で心配でたまりません。>=国民学校4年女子
 <校長先生は(略)日本がアメリカ、イギリスの二つの国と西太平洋で戦争を始めました、とおっしゃった。私は思わず胸が「ドキン」とした。いくらなんでも戦争にはならないだろうと、先生や家の人からきいていたからです。教室へ来てからも私は心配でたまりません。ユキ子さんが「われ、ぐあいがわるいか。まっさお」と、言ってききました。わたしは「ううん」といったきりでした。>=国民学校3年女子

 太平洋戦争開戦の興奮状態の中で、冷静な目を持ち楽観をしていなかった子供や家庭もあったのです。その声が残念ながらかき消されていきました。それでも、この文集の中に少しでも本音が残っていたことは奇跡的だと思います。

 「怖い物は怖い」「いやなものはいや」「戦争は反対だ」と、堂々と意見を表明できることが、どれだけ大切なことか。戦時下にあってなおその思いを持った人たちがいた事実は、今のわたしたちにも力を与えてくれるのではないかと感じています。

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