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戦費を稼ぐんだからいいんだ! もっと煽れ煽れーと富くじ禁止令もなし崩しに

 日中戦争で既に疲弊し始めていた大日本帝国は、日中戦争継続のための資源収奪を狙った仏印進駐で逆に米国から食らった石油禁輸と、同盟国ドイツ軍のソ連への快勝ぶりをみて、対米英蘭戦争=太平洋戦争に突入します。
 太平洋戦争開戦で、さらなる戦費が必要になったことはたびたび触れてきましたが、呼び掛けや脅し、同調圧力に加え、射幸心をさらにそそって戦費を稼ぐ方向も伸ばしていきます。
 太平洋戦争開戦間もない1941(昭和16)年12月22日、政府は閣議で「逓信緊急政策要綱」を決定し、その中にあった「割増金付郵便貯金切手制度の実施」によって1942(昭和17)年6月から発売されたのが通称「弾丸切手」と呼ばれた「割増金付戦時郵便貯金切手」でした。切手とは言っても郵送には使えない、純粋に資金調達のための債券のようなものでした。

いずれも同じ「割増金付戦時郵便貯金切手」で、下は郵便局への預入票が付いた後期のデザイン

 1枚の発行額は2円で、毎月発行・抽選し、最高で1000円の割増金がもらえるというもの。また、5枚集めると郵便局で「特別据置貯金証書」と引き換えられ、5年据置で元金の10円が戻り、一応、債券の体裁は残していました。
 「弾丸切手」という呼称は、戦費になって弾丸になること、11枚に1枚は当たりが出るほど「よく当たる」という意味から付けられていました。また、1943(昭和18)年9月発売分からは割増金が増額され、当たりくじ率が8枚に1枚の割合に上げて、一層射幸心をあおりました。

特別据置貯金証書。こちらは無利子でした。
1943年ごろの弾丸切手の宣伝チラシ
「さあ売切れぬ内に」と買いに走らせる勢いをつけています。

 さらに弾丸切手の当選率が引き上げられた翌年、1944(昭和19)年9月には新たに「福券」が発売されます。額面は5倍の10円ですが、一等奨金は5万円とし、弾丸切手の1等1000円の割増金の50倍とし、当たりくじ率も「6本に1本」とさらに引き上げています。ただし、元金10円の償還は20年後となりましたが、それでも元金を将来は償還する債券のスタイルは維持していました。法的には、戦費調達の臨時資金調整法に基づいています。

1944年9月の福券第一回発売を知らせるポスター
第一回発売の福券。正確には「奨金附福券」か。

 そして1945(昭和20)年7月、今度は「勝札」の販売が始まります。額面10円で一等奨金が10万円と福券のさらに倍となり、当選確率も5本に1本まで上がっています。こちらも臨時資金調整法に基づく発行でしたが、勝札の場合は償還がなくなりました。あくまで債券の法律に基づく発行ではありましたが、償還なしでは、もはや富くじのなし崩し的復活といえるでしょう。

勝札売り捌き所の張り紙。長野県では、たばこ店で販売しました。
第一回発行の勝札。これも「奨金附勝札」が正式か。

 この勝札、1945年7月5日の信濃毎日新聞に「売出し十六日 煙草店で一手扱」として記事になっていました。当時の10円は今なら1万円程度といえますが、記事によりますと「勝札の人気は東京でも凄まじく、予約申し込みの行列が出来ているしプレミアムも付くような勢い」と人気は出たようで、長野県内ではタバコ販売組合連合会が引き受けて、各小売店で額面を厳守するとしています。
 ただ、勝札の発売は第一回が玉音放送のあった8月15日までだったので、この1回のみで終わりました。それでも抽選は戦後、長野市にあった勧業銀行支店で予定通り、8月25日に行われています。元金の償還が最初から予定されていなかったことから、この「勝札」が宝くじの元祖とされています。実際に現在につながる「宝くじ」が発売されるのは、同年10月29日でした。

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