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映画、という旅の途中で

感性が違うから感想も違う

映画はエンタメだ、という人がいる。
映画はアートだ、という人もいる。

娯楽なのか芸術なのかはあくまでも受け手の感性、といえばそれまでだが、小説にだって純文学や私小説、そして娯楽小説もあるわけで、感性はジャンルを選ばない。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。

例えば私は映画に好き嫌いを言わない。だが、当然肌に合わない映画は避けるクチで、「ターミネーター」や「ブリット」は飽きるぐらい見まくるが、「タイタニック」は見直す気にはならない。同じジェームズ・キャメロン映画でもこうなのだから、娯楽だアートだ、なんてジャンル分けで映画は語れない。

昔、友人と映画論争をした。リュック・ベッソンとジャン=ジャック・ベネックス、どちらが上か。その友人はベッソン派で「レオン」断然支持派。私はベネックス派で「ベティ・ブルー」を熱烈に語った。でも会話が噛み合わない。映画のジャンルも違うが、そもそも感性的に肌合いが合う合わない、が映画の好みの違いとなって、感想さえも違った。
別に私はベッソンを完全否定派ではない。「ニキータ」は好きだし、「レオン」だって悪くない。ただあのあざとさ、が駄目なだけで(笑)
片や、ベネックス映画には見た途端から吸い込まれた。「ディーバ」のセンスとベトナム娘と中年男との不思議な関係、物語的には難解な「溝の中の月」のナスターシャキンスキーの美しさ、「ベティ・ブルー」の壊れることが分かっているのにその愛に堕ちていく男女。多分、こーいう物語に弱いんだなあ。
これも感性、という自分との親和性。

そんな事を思いながら、先日「トリコロール」三部作と「ふたりのベロニカ」を再見した。
クシシュトフ・キェシロフスキという、まさに天才と呼ぶにふさわしい映画作家もまた、私の感性を大いに刺激し、そしてある時期の私に大きな影響を与えた人。どれもが見ごたえのある作品なのだが、最初に彼の作品として影響を受けたのが「ふたりのベロニカ」。

とにかく今見ても私の関係にズドン、と響く衝撃を与えてくれる。同じ年の、同じ時間に違う場所で生まれた瓜二つの顔を持つベロニカ。2人の人生はシンクロする様に音楽への感性を広げ学ぶ。そんな2人が〈偶然〉に人生ですれ違う。だが運命はそれをきっかけに大きく変わる。一人が人生の絶頂期に死に、もう一人が見えない運命に導かれる様に、真実の愛に出会う。

とにかくズビグニエフ・プレイスネルの音楽が素晴らしく、映像もそれにシンクロするように主人公の視線を中心に、変わっていく空気を捉える様にゆっくりと心情を語っていく。
そこに言葉はない。
この映画にとって言葉は陳腐だ。なるべくそぎ落とし、ヒロインを追う。

偶然に出会った人形劇。それを演出した顔の知らない男に直感で「恋した」ヒロインは、彼の足跡を追っていく。この人形劇のシーンで、もう一人の死んだベロニカが人生最大のクライマックスで歌っていた曲が流れる。まるでこのベロニカの人生を決定づける何かを暗示する様に。
やがて物語は恋を実らせ、そして初めてヒロインはもう一人のベロニカの存在を、彼女が旅行先ポーランドで撮った写真の中に発見する。
「偶然」と「運命」。
キェシロフスキ映画はそこに映画のテーマを求める。「トリコロール赤の愛」もまた、そんな近くにいながら、互いの存在を知らぬ男女を最後、船の遭難によって結びつける暗示で終わる。このクライマックスには他の三部作のヒロインもまた、遭難という偶然から、一つの運命としての結び付きとして登場するが、明らかにこれらはキェシロフスキの主題の総決算であるもともに、「ふたりのベロニカ」が媒体となったもの。フランスの国旗にかこつけてはいるが、どれもがキェシロフスキ印の自家製ワインの様な映画群なのだ。

久しぶりに見て、私の中にまだ残っている感性に微かに火が灯った。そう、こんな映画を作りたいのだ、書きたいのだ。

岡本喜八監督は、映画が思うように撮れない時は、それでも脚本を書き続けたという。いつ映画が撮れるチャンスが来ないとも限らないからだという。その感性が鈍らない様に、石にかじりついてでも脚本をかいておく。

私はスマホを前にこのエッセイを書いているが、同時にパソコンの前で真っ白な画面に、自分が撮れるなら撮りたいと思う脚本の題名を書き込んだ。
感性が尽きぬうちにこれだけは書いておきたい。それは決して万人向けに受けるものではないが、それでもキェシロフスキ映画は教えてくれた。偶然と運命は紙一重、だと。

そんな映画に出会うために我々は映画を観る。
映画の旅は終わらない。

今回の映画。
「ふたりのベロニカ」1991年
「トリコロール三部作」1994年
共に監督クシシュトフ・キェシロフスキ 




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