少なくとも僕が考える愛は
少なくとも僕の考える愛は、
愛してる、とか愛される、とか、動詞で使うものではない。
動詞で使う愛は、確認作業のような、誓いのような、覚悟のような、そんな意味合いに思う。
愛、とはまた違ったものなのである。
少なくとも僕の考える愛は、
泉のように、また、泉というにはあまりにも際限がなさすぎるほど、湧き出ているもの。
物理法則に干渉することもされることもなく、したがって無限という概念すらもいらぬほどに、そこかしこに溢れているもの。
少なくとも僕の考える愛は、
愛という言葉を口にするのが照れくさかったり気障ったらしく感じたりする間は、その愛の何たるかの入り口にも立てていないような気がする。
それでもそのことを恥じることなく、臆することなく、愛を口にすることが当然であるような、愛と同化したような人にならねばならない。なれなくとも、ならねばならない。
少なくとも僕の考える愛は、
僕の一生の間に決してたどり着くことのできない真理そのものであるような気がしている。
たどり着けなくていい。けれど死を迎えるその時まで、分母が無限大であっても、分子の一歩の歩みを止めることがないようにせねばならない。
これは僕の、僕だけの愛の輪郭。
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