協働と言葉の関係について──クリストファー・アレグザンダーから(1)

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seshiapple

おどりのようなもの

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コメント1件

次の回でもまだ本論(本音)は出てこないのでここに書いとくと、要するにぼくは、アレグザンダーが「パタン・ランゲージ」という方法で、言葉(自然言語で書かれた「パタン」)の改善を経由して、アウトプット(建築や都市)の「質」を改善しようとしたことの面白さについて考えたいのだ。

ぼくは当時からいままで、レトリカでも下宿でもなにをやっていても、言葉の調整を通じてステークホルダーがピントを合わせ、それによって事態が、作品が、前に進んでいくことの面白さに取り憑かれている。別の言い方で言えば、解釈共同体の立ち上げが、単なる言葉遊びと無駄なダベリの時間に終わるのではないことを信じている。

そして、こんな時間にこんな文章を編集し、注釈をここに書かなければならないのは、その信じ方が、いわゆる文芸作品をつくることとも、広告のコピーを書くこととも違っていて、寄る辺がないなと感じているからである。

──とりわけ最近は、この寄る辺なさに拍車がかかっているというか、解釈共同体のパフォーマンス(というか存続可能性そのもの)に自信がなくなってきている……。
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