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DINKsは寛容な社会、いい加減な社会なくらいがちょうどいい

ここ最近、いつもの情報システム部門の業務で、停電からの復電作業に伴う社内インフラの再起動というタスクがあった。復電の際、ちょっとビル管理側の作業の漏れがあり、一部の区画で正常な復電ができていない状況が発生していた。

その作業は当然、情報システム部門の担当ではなく、復電そのものの作業を行う部門の問題なので、こちらが、電源が入らないことを報告し、その場で復電作業をしてもらったのだが、こちらが「ミスなんて誰にでもあるし、結果的に始業時間に間に合っていますから、何も問題ないですよ。逆に朝から対応してくださってありがとうございました。」と言っても、作業員の方は、とても申し訳無さそうにしていたし、再発を防止するよう、該当者に厳しく言っておきます、と恐縮していた。

私はまったくこの作業員サイドに文句を言うつもりもないし、仮にずっと間に合わずに仕事の始業時間になっても、怒りの感情を持つことなどないなーと、この待機時間の時点で自問自答のように考えていた。

驚くことに、それよりも、私は、こんなたいしたことないのに、社内のうるさい連中がイチャモンを付けてきたり、いつものカスハラのように、大げさな反応をしてきたら、どんな厳しい言葉を用いてコイツらに反撃してやろうか、考えていた。IT介護をする中で、あまりにひどい言葉を浴びせてくる連中に対しては、最近は、そういう言葉は暴力だと、毅然とした対応をするように変えたのだ。だから、ここでも、自分は何もしていないのに、鬱憤を晴らすように暴言を吐いてくる奴をどう処理するかに、注意が向いていたのだ。

こういう自分自身に、笑ってしまった。①社内からクレームを言われる→②余裕がなくなる→③立場の弱い現場の作業員に強く当たってしまう、という、人間として最低な負の感情の連鎖が各所で行われ、実際に、今回も、関係者は、作業ミスした人を批判するようなことを言っていた。けれども、私は、「たいしたことがないことに対し、感情をむき出しにしたり、そもそも、負の感情を言葉にして他人にぶつけたりすることが、仕事以前に、人として最低である」という考え方ベースになっていて、仕事を完璧にできることなど、心底どうでもいいと捉えるような価値観になっていたのである。

日本の労働環境における価値観としては失格かもしれないが、特に誰かが致命的に困ったりするわけでもないのに、過剰に完璧を求める社会は窮屈なだけだと思う。定時出社にこだわり、1分遅刻する人を非難する社会だから、みんな必死に早く移動しようとして、駅でぶつかって小競り合いしていたり、舌打ちしたりする人が後を絶たないんじゃないかと思う。別にいつきても、何時間仕事しても、必要なことができていればいいよ、そしてそれは、過剰なカスハラのような要求ではなく、一般的にその主体が果たすべき役割をそこそこ果たしていればいいよ、と許し合える社会だったら、どんなに楽だろうか。

どうでもいいことを大問題に仕立てたり、特に困るようなことじゃないことに苛立ったりしている人を見ると、馬鹿だなとしか思わないし、よほど自分自身で自分を幸福にする手段を持っていない人なんだろうなと思う。自分の中で幸福を作り出す、幸せの自給自足ができないからこそ、他人に求め、期待し、絶望し、腹を立てるのかなと。そうじゃない人生でよかったと、身にしみて感じる朝だった。

そして私は自分がこういう心持ちでいるのは、自分自身がDinksだからだとも思っている。

労働で自分の意志を貫くことは、クビが怖くないからできることであり、それは、子供のための安定収入が不要であり、子孫に金を残す必要がなく、残された資産を自分たちのためだけに使える境遇だからできることであるとも思っている。

子供がいないこと、貯金があることは、こういうときに強く、逆に、人に媚び諂うことができない人格を確立しているとも思う。クビにならずとも、昇進する必要がないからだ。

昇進が不要であれば、普通に、語学や潰しがきく業務経験、資格で食いつなぐことができ、妻に金銭的リソースを全振りすればいいだけなので、シンプルの極みである。

守るべきものが一つに絞られていることが、自分自身の軸も一つに絞れることにつながり、それが、思いやりや遊びを大事にできる人格・言動を作っているとも思っている。

だから、結局は、この夫婦の形を一緒に楽しんでくれている妻に感謝、そしてこういう自分でも受け入れてくれる周囲の一部の人達に感謝することに尽きるのだろう。

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