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空港/劣等感/15年

夜更けの空港は意外にも慌ただしい。僕は長く並んだソファの一角に小さなリュックを置いて寝転んでみた。
眠れない。ゆったりできない。動悸がする。
空港で一晩を過ごすのは厳しそうだ。これから約8時間、いやもっと長くなるかもしれない時間をいかに過ごすのか、見当もつかない。

「ぽきっ」

首の骨が鳴る。ラウンジに行くお金も、外に出てホテルへ行くお金も、誰かに声を掛ける勇気もない。
リュックも枕に天井を見上げて、空の旅を待つしかない。まぁただの移動手段だけど。

横に子連れのママがいる。ママといっても37歳の僕と同じ歳ぐらいだろう。
「明日になれば戻れるからね。楽しも」
ポジティブな人はいいなぁと思う。劣等感を自尊心にして、自分は何者かになれると小説家を目指してしていたが、生まれた環境や学んだ教訓や価値観、蓄えた粘り強さやひらめきは劣等感では得られない。そのとき、はじめて、劣等感に絶望した。それをふと思い出す。いや、ずっとその絶望と生きている。
僕は小説家を諦めて編集者になった。連絡が取れなくなった作家の実家を訪ねた帰りだった。〆切を逃すことよりも、作家のメンタルのことよりも、「この人でも書けなくなるんだ……」という安堵が心に染み付いた。

劣等感からは何者かになれない。

すると隣のママが眠った少年の横で泣いていた。しくしくと。
目が合って驚いた。

この人、昔同じバイト先で、ファミレスで働いたことのある久美子さんだ。
たしか、国立大学に通う才女で話しかけることさえも憚られた彼女が、みすぼらしいシングルマザーになっている。
あのとき輝いて見えたのは……いや、キラキラしていた。間違いない。

「あ……昔、アルバイトで」
「大城久美子さん、ですよね」
「桜新町の」
「デニーズです」

なんで北海道にいるのか分からない。僕も久美子さんも。
なんでこんなにくすんでいるのか分からない、二人とも。
「大変ですね、急な欠航……」
「ええ」

よそよそしいのは当たり前だ。あのときだって、バイト中だって休憩中だってまともに話したことがなかったんだから――。

15年ぶりに僕らは語り始めた。今までのことを。

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