偶然スクラップ#37: Robert Frank obituary (Robert Frank 訃報) 2

(追記:2019年12月31日)
ロバート・フランクの歴史を勉強しようと思って、訃報記事を調べた。彼は、アメリカが豊かになっていく、その辺境に取り残された人たちを写真に収めた。マイノリティ。彼はスイス出身だが、国籍を取得する前は、国籍を失っていたことがあったり、そこからアメリカに渡ってきたり、彼自身がマイノリティなのだ。

スイスやイタリアなどで写真の修行をして、独立してパリに移った後、「群衆の中の孤独な仲間外れ」といった既にマイノリティに魅了された写真を撮っていた。

テーマもそうなのだが、彼の「まとめ力」がすごい。さっきのパリで撮った写真をまとめ「40 Fotos」という写真集を手作りでつくり、これをよく周りに見せていたという。これ以降も、撮った写真をまとめて、周りに見せている。一方で、写真については説明しない。フラッシュは使わない。写真は写真で語らせる。この基本を徹底したからこそ、彼の写真はパンチ力が半端ない強い写真なのだろう。

(初投稿:9月16日)
一昨日, ロバート・フランクの訃報の記事のリンクを一つだけ貼ったnoteを上げた。実は翻訳が終わらなかった…。やっと完了したので遅ればせながら今日もRobert Frankの訃報を取り上げます。イギリスの大手一般紙the Guardianからの記事です。

(2019年9月10日付記事)
ごく普通の人々と辺境にいる小さな存在の生を捉えた写真家
By Amanda Hopkinson

Walker Evans が1930年代、Robert Mapplethorpe が70年代のアメリカを撮影し、94歳で亡くなったRobert Frankは、1950年代のアメリカを撮影した。彼の白黒写真は、危険に晒されて存在する人々の無視そして拒否された生活を捉えた。

1957年、Frankはニューヨークのパーティーで専門記者のJack Kerouac と出会った。Frankは直前まで行っていたアメリカ全土をロード・トリップして撮影した写真の束を彼に見せた。Kerouacは1958年にパリで、翌年にはニューヨークで出版されたFrankの最も有名な本『The Americans (アメリカ人たち)』のイントロダクションを書くことを申し出た。Kerouacは、「棺桶よりジュークボックスの方が悲しいかどうかなんていうことが、もはや分からなくなる」まで作品中に散りばめられた、たくさんの棺桶とジュークボックスに言及した。そして次のように結んだ。「To Robert Frank I now give this message: You got eyes. (Robert Frankへ、私は今このメッセージを与える。君は目を獲得した)」

『The Americans』は、空っぽの路地と一人暮らしの人々の孤独を取り上げた。-ハリウッド映画のプレミアでの金髪の女性、ワンルーム・アパートの壊れた吹き抜けの階段の下で杖に寄りかかった半分隠れた男性、人のいないカフェのむき出しの板の上にクッションから落ちた赤ちゃん。

旅行、食や睡眠は、最も興味深い習慣である。フロリダの大型観光バスで多種多様な帽子をかぶった年金受給者の移動、Hells Angels(オートバイに乗った暴力団)、ドライブインにいるシボレー、「Christ Died For Our Sins (キリストは私たちの罪のために死んだ)」という巨大なコピーを見せびらかすテカテカしたリンカーン(車).

その写真の中で、しばしば宗教は不吉な面を持つ。例えば、Highway 91の横にある月明かりに照らされた十字架、Awake!といった本を売っているエホバの証人、そして、ソルトレイクシティにあるディズニー風の小塔のあるモルモン教徒の本部の写真。

Frankは、スイス人の母親Regina Zuckerとドイツ系ユダヤ人の父親Hermann Frankの間で、チューリッヒで生まれた。Hermannは、第一次世界大戦の終わりに国籍を失い、彼の二人の息子、RobertとManfredと共に、1945年の終わりにようやくスイスの国籍を獲得した。Frankは伸び伸びと成長し、チューリッヒの私立学校に通った。

彼はZurich, GenevaとBasleで写真家に弟子入りし、Gloria Films社で静物写真家として働き、その後フリーランスとして独立し、パリに移った。1946年、彼は最初の手作りの写真集「40 Fotos」を制作した。彼は既に、洗濯物ロープと煙突、キッチンの鍋とスプーン、群衆の中の孤独な仲間外れといった細部の描写に魅了されていた。

1947年、Frankは船でニューヨークに渡り、Harper’s Bazaar magazineのアート・ディレクターであったAlexey Brodovitchの下で働き始めた。その後、Fortune, Life, Lookを含むメジャーな写真雑誌でフリーランスとして参加した。ほぼ同時期にIrving Penn のように、彼はPeruにインスピレーションを発見した。彼がペルーで撮影したイメージはもう一つの手作りの写真集に入っている。ニューヨークで、彼はキュレーターのEdward Steichenと出会う。1950年に彼はFrankを含む51名のアメリカの写真家 のグループ展をMoMAで開催した。

その年、FrankはアーティストのMary Lockspeiserと結婚した。彼らはマンハッタンに落ち着き、二人の子供、PableとAndreaを持った。Frankは1949年と50年代初頭にヨーロッパに戻り、主にParisで、それにBarcelona, Madrid, London, Welsh valleys (ウェールズ渓谷)で撮影を行った。彼は観光地を避けて、常に小さな存在-Victoria駅で物乞いをする年老いたバイオリニスト, 破れてシワの在る服を着て顔が汚れたサーカスの子供たち, 放置された屋外の舞台装置の中の廃棄されたポスターや椅子-を撮影した。夜間の撮影も含めて全ての写真はフラッシュや照明は使われていない。

1956年、Frankは写真家のWerner BischofPierre Verger ,作家のGeorges Arnaudと協力し、ラテンアメリカのイメージ『Indiens Pas Morts (literally, Not-Dead Indians [死んでいないインディアン])』という本を制作し、パリで出版した。そこでRobert Delpire は後の『The Americans』になる『Les Americains』を出版した。

Guggenheimの協力を得て、Frankは1955年にアメリカを放浪し、ミシガン、ジョージア、リノ、ソルトレイクシティ、イリノイ、フロリダに2回の長期旅行に家族を連れて行った。Frankは撮影した2万8千枚の写真からコレクションに含める83枚を選んだ。それは戦後アメリカで最も影響力のある写真集になった。

1961年、Frankはthe Art Institute of Chicagoで『Robert Frank: Photographer』という初の個展を開いた。その一年後ニューヨー クのthe Museum of Modern Artでもう一つの個展を開いた。彼は自分の写真についてできるだけ書くことも、口にすることもしないことを好んだ。1951年に彼は言った。「人々が私の写真を見る時、私は彼らに詩の一行を二度読みたいときに行っていることを体感して欲しい」

彼の動機は、作品を「動かす-または作品に語らせる-またはもう少し生き生きさせる」ことだった。この目的のため、『The Americans』をアメリカで出版する時には、彼はメディアを切り替えて、主に映画を制作していました。Kerouacと彼のBeats (ビート・ジェネレーション)仲間であるGregory CorsoAllen Ginsberg で作った『Pull My Daisy』(1959)は、一見簡単そうに見えるが難しい即興的な作品として広く賞賛された。Frankの共同監督であるAlfred Leslie は後年に、全てが綿密に計画され、リハーサルされ、実行されたものだと明かした。

彼のその他の短編には、Isaac Babelの小説を脚色した『The Sin of Jesus』(1961)やGinsbergやPeter Orlovsky が出演し、Sam Shepard と共同執筆した脚本の『Me and My Brother』(1969)がある。

1972年、彼は彼の最も有名な映画である『Cocksucker Blues 』の監督を務めた。これはツアー中のローリング・ストーンズ を追跡した作品で、ドラッグと乱交の様子が含まれていた。Mick JaggerはFrankに「もしこれがアメリカで上映されたら、俺たちは二度とこの国にいることが許されなくなる」と伝えたと報道されている。著作権が監督または被写体のどちらにあるのかを決定するために裁判が続いた。評決は、この映画に公開上映の回数を限ることという制限を与えた。『Keep Busy』(1975)と『Candy Mountain』(1988)はFrankの最も有名な映画のその後に起こった出来事を描いたものである。

1969年、彼はメアリーと分かれ、その後すぐにカナダのNovascotiaで、彫刻家のJune Leaf と共に居を構えた。彼らは1975年に結婚をし、彼女は彼よりも長生きをしている。

1972年、彼は『The Lines of My Hand』を出版し、彼はそれを「visual autobiography (視覚的な自伝)」と呼んだ。それは『The Americans』よりもかなり少ない数しか販売せず、様々な種類の批評的な反応があったが、写真家や学生からは広く賞賛されている。

1974年、Frankの娘Andreaは飛行機事故で亡くなった。彼の反応は、スナップショット、ハガキや傷を付けたり改変したネガで構成される複雑なコラージュを制作することだった。また彼は彼女を追悼して映画『Life Dances On』(1980)を制作し、1995年にはアーティストに助成金を支給するthe Andrea Frank Foundation を設立した。彼の息子Pabloは精神科の施設で何年も過ごし、1994年に亡くなった。Frankのその後の作品は徐々に暗くなり、以前の怠慢と絶望への没頭が、今や死の暗示と関連付けられるようになった。

彼はますます世間から離れるようになったが、1996年のPatti Smithの「Summer Cannibals 」のミュージック・ビデオなど、特定のcommission(制作依頼)では姿を見せた。彼は展覧会を続け、1994年にはワシントンのthe National Gallery of Artで開催した「Moving Out」と題した彼の主要な作品の回顧展のキュレーションを行った。また2004年にはロンドンのTate Modernで初のイギリスでの彼の作品を集めた大きな展覧会 を開催した。2008年は、『The Americans』の出版50周年目を、Frankが多くの写真をreframe(再構成)やcrop(トリミング)をした新しいエディションで祝った。

●Robert Louis Frank, photographer and film-maker (1924.11.9-2019.9.9)

翻訳:雄手舟瑞


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