偶然SCRAP#45: 複雑な同性愛者のために戦うレズビアンのおとぎ話

(追記:2020年1月1日)

同性愛者の作家カルメン・マリア・マチャドの書籍「イン・ザ・ドリーム・ハウス」の書評。

このnoteを始めてからfriezeを少し読むようになって、ロンドンのヘイワード・ギャラリーで同性愛者の大規模な展覧会が開かれたり、他にも同性愛者に関する作品などのレビューが多く載っていた気がする。マイノリティ関係の記事には目が行ってしまう。

もちろん概ね肯定されているが、多様性と同じように受け入れようと組織や少数の人たちが叫んでも、古い価値観を持つ実際に存在する人たちからするとあくまで教科書のセリフに過ぎない。まだまだ叫ぶ必要がある。ただ、これまで彼らが闘ってきた結果、存在してなかった存在から、外側の存在としてだけど認知されるようになった。確実に前進している。

闘い続けるのは辛く、血を見る。しかし、彼らが闘ってきてくれたおかげで、あとはサッカーじゃないけど個々の闘いに戦場が移ってきているのだ。

同性愛者同士の恋愛は神聖なものではなく、そこにはDVなどの問題が普通にある。それを普通に描いたのが、この作品であるらしい。外側からのプレッシャーと個人の闘いの両方に対処する彼らにそりゃ敬意を表するでしょ。

じゃあ自分は、自分と闘えてる?と自問自答しながら、まずはこの記事を世に晒すことから始めるのが、私の現在地。もっと現在地を分析しなければ。

(初投稿:2019年10月13日)

イギリスのアートマガジン「Frieze」に掲載の、カルメン・マリア・マチャド著の『In the Dream House』の書評を引用紹介します。

Review /
複雑な同性愛者のために戦うレズビアンのおとぎ話
BRYONY WHITE
9 OCT JUN 2019

『In the Dream House [理想的な家の中で]』は、同性愛者の虐待的な関係に関する「悪評」に取り組む

画像1

Carmen Maria Machado, In the Dream House, 2019, book cover. Courtesy: Graywolf Press

Stuart Hall(スチュアート・ホール)の著作『New Ethnicities』(1996)で、彼は、「関係の表象」から「政治の表象」への移行を認識し、「映画は必ずしも良いものであるとは限らない。なぜなら黒人が作るからである。黒人が彼らの経験を扱うという真実のおかげで、映画は必ずしも「良いね!」と言えるものではなくなる」と書いています。これは、Hallが、「本質的な黒人のテーマという無知な概念」の終焉と呼んでいるものであり、「違いと共に、そして違いを通して作用する」政治を支持するものです。

Carmen Maria Machado [カルメン・マリア・マチャド]著『In the Dream House』(Graywolf, 2019)は、「女性の同性愛」に対し、寛大さと同様の配慮を伴って、つまり同性愛者の生活を本質主義者としての可読性を伴って、アプローチしています。また、気を紛らわすだけの表面的な表現になってしまう可能性に危険なほど注意を払っています。Machadoの自伝は、一度に多くの面―索引、証言、中毒、虐待、選択問題、レズビアンのおとぎ話、分類学、同性愛者の家庭内暴力の過去―を見せます。また、色々な意味で、最後には、果てしなく甘く、より希望に満ちた、もう一つのおとぎ話にもなります。この本は、あなたが「丸く太った」同性愛者の身体の中に存在しているとしたら、誰かがあなたを望んでいるかもしれないとか、愛しているかもしれないと考えると恥ずかしいと思ってしまう、といったことや、自分には何の価値もないと、長い間、考えているときには、どんなに簡単に快楽に屈してしまうのか、といったことについて書かれています。

また、これは大衆によるものの見方―同性愛者に公共の場で恥をさらして欲しくない―についての回顧録です。『In the Dream House』は、同性愛者が目に見えることでできること(したこと)、ひいては人々から見られるので、彼らがいつも必死にしなければならないこと、これらに潜んだ危険に対して、口うるさい警戒心に付きまとわれます。「同性愛者の悪事としてのドリーム・ハウス」の中で(多かれ少なかれ、各章は「○○としてのドリーム・ハウス」で始まる。例えば、「Dream House as Dreamboat [すごく魅力的な異性としてのドリーム・ハウス]」、「Dream House as Bluebeard [青ひげ男としてのドリーム・ハウス]」、「Dream House as Natural Disaster [自然災害としてのドリーム・ハウス]」)、Machadoは、同性愛者の悪役は、「邪悪さや堕落のメタファー、あるいは協調性や従順さの象徴である必要はない」と書いています。「私たちが不正行為を拒むとき、同時に彼らの人間性も拒むことになるので、不正行為 [は] 私たちの英雄的行為と同じくらいに表現される」そんな場所で、Machadoは、より複雑な、より曖昧なモラルを持ったキャラクターを求めます。そうすることで、Machadoは、説得力と読みやすさを兼ね備える同性愛者の可視化に必要な、見方によっては乱暴な削除によって、どんな形であれ、静けさを得て、彼女は私たちを物語に向けさせます。

Machadoは、「表象」についてここで語っています。―またテレビ、映画、文化的産物、文学といった色々な方法で、彼女は、「同性愛者たちのリアルな人生」やよくある「描写」と「リアルな人生」の間の不快なズレについても語っています。同性愛者の家庭内暴力について議論することによって、このテーマをテーブルに載せる行動に取り組み、同性愛者の人生に汚名を着せる「悪評」と戦っています。あるところで、Machadoは、「狂ったレズビアン」というレッテルに悩まされることや「ドリーム・ハウスの中の女性」に、そのような衰えることのない不条理な態度を、どんなに取って欲しくなかったか、ということを書いています。「数年後、もし彼女に何か言えることがあったら、私は言いたい、「いい加減に、私たちを悪く見るのをやめて」と」と、彼女は書いています。同性愛者の表象と同様に、Machadoは、「同性愛者が等しく素晴らしさ、純粋さ、正しさと同等であるわけではない」ことを意識しています。すなわち、同性愛者のコミュニティのような、特に人種、階級、宗教、あるいは性別の交差点としてマイノリティのグループについて考え、そして彼らが社会的に克服するために努力してきた多様な取組みと暴力について考えるとき、彼らは不正なことも行って良いと認めることは困難です。

画像2

Carmen Maria Machado, 2019, photograph. Courtesy: Art Streiber / AUGUST

しかし、もし私たちが本当にこの物語を目に見える状態に変えようとするならば、彼らの潜在的に両面的な困難さや多様性の全ての面で、Machado自身がするように、唯一の読みやすい物語として与えられる「シングル・ストーリー」という概念の開放に関するChimamanda Ngozi Adichieを引用することです。あらゆる回顧録の中でも、特にあまり語られることのない回顧録では、人生をパチンと割って外に露わにすることは難しいです。あるところで、Machadoは尋ねます。「あなたがWisconsinに連れて行った唯一のガールフレンドが、同性愛者の女性たちの保守的な親族の見識をより強固にしてしまったのは、なぜでしょうか?」彼女は読者に言います。―「彼女は、腹黒くて陰気な男ではなかったのです」。
私たちが良いもの、規範的なものとして、同性愛者のテーマを読まなければならないとしたら、私たちは習慣から何を放棄するのでしょうか?一つは、私たちが本質的、良い、固定された、風変わりなといった主題に関する概念を新たに創ることです。―その答えは、危害を加えたり、傷つけたりすることはできないものです。しかし、Machadoが提案することは、同性愛者たちもまた、悪く振る舞えるということです。

Machadoは、本の中で一貫して、同性愛者たちの生活に対する空想と、彼女がかつて生活したその空想の中の現実の間の広大なキャズムを説明し、そしてこのキャズムがいかに、型通りの異性愛のイメージに対する現実に、いかに浸透しているのかという説明を行おうとしています。―他の人々に説明をすることを諦めたら何が起こるのだろうか。そして、これがとても痛々しい理由は、Machadoが書いているように、それは「女性の異性愛のクリシェな定義であるファンタジー性に、穴を開け、破裂させるからです。『In the Dream House』がしたように、同性愛者の家庭内暴力を認めることは、「私たちは他のみんなと同じように泥の中にいる。この点で、私たちはストレートの人々と同じであること」を完全に認めることになります。しかしながら、Machadoは「いつかは変わるかもしれない」と希望を持っています。恐らく、同性愛が普通なことで、その気づきを受け入れられるようになるとき、楽園に入っていくような気分は減り、もっと自分自身の肉体―不完全だけれど、あなたの肉体―を主張できるような気持ちになるでしょう。

『In The Dream House』の中では、虐待でさえも掴みどころがない。あるところで、ドリーム・ハウスの中の女性は、セックスの間にMachadoのあごを強く掴み、―「私があなたを犯しているときは私を見なさい」と言うのだ。Machadoはイクふりをする。たくさんのおとぎ話のように、ラブストーリーとして、こう始まる―「彼女は、あなたを狂わせるbutch[男役]とfemme[女役]のミックスだ」―そして、欲望はMachadoの手足に集中し、最終的に手足はきつく掴まれ、愛なしに触られます。その結果、食料品店で人々を犯しているとMachadoを批判する妄想と規制が生まれ、ドアを蹴り破り、彼女の顔を見て叫び声を上げ、家の周りで彼女を追いかけ回すドリーム・ハウスのその女性の父親さえ登場します。私はパブで、『In the Dream House』を、Machadoの散文の行を横切るように、急いで目を通し、そのパワーを恐れて、自分から隠すように、それをしまい込みました。恐らく、私は、それが薄い空気の中に消えてしまい、それが含んでいるものは現実ではないかもしれないと感じました。『In the Dream House』は、あたかも今にも誰かが現れて、本を破り捨て、それは真実を述べていないと言いに来るような、危険をはらんだ問い、自己不信といった感覚でびしょ濡れです。結末に向かって、読者は、一連の選択問題に回答するように求められます。Machadoは、物語的な[相手の現実感覚を狂わせようとする]ガスライティングを利用し、困難をものともせず、証拠として、証言として、彼女の物語を必死に表現しようとします。

家庭内のプライバシーは、同性愛者にとっても常に争いが絶えない場所であり、保管庫にとっても同じです。Machadoは、これら両方のスペースについて詳しく扱っています。Machadoが探求するものの多くは、暴力、恐怖、虐待、感情などといったアーカイブに含めることはできず、むしろそれは暴力、恐怖、虐待、感情などといったものによってよく沈黙されられています。Machadoが序章で書いている通り、「時々、アーカイブに決して入らない証拠品がある―それは、記録するほど重要でないと考えられているのです。」この意味で、『In the Dream House』は、暴力が内側と外側を覆っている場所における瓦礫、語ることが難しい断片からできた物語なのです。同性愛者たちが浴びる路上で酔っ払った男たちの罵倒、特定の場所で投げかけられる疑わしい視線、このような同性愛者嫌悪の瞬間、瞬間が、この本を傷つけていきます。しかし、暴力は、自宅で、家で、同性愛者の親密な家庭内の場面で、日常生活の中に存在します。『In the Dream House』は、決定的な証拠であり、正義に向けた頷きです。アイデアは漠然としていたり、不可能だったりするかもしれませんが、門番、アーカイブの消し跡、沈黙を丹念に捜査していくにつれて、固定概念に抗った同性愛者の可能性を明瞭に表現していくのです。

BRYONY WHITE
Bryony White is a PhD candidate at King’s College London, where she is writing about performance and the law. In 2019, she was shortlisted for the Fitzcarraldo Editions Essay Prize, and she has written for frieze, LA Review of Books, Artmonthly and the TLS. She co-edits the Tinyletter, close

訳:雄手舟瑞むずかったな


こんにちは