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正解の反対は「間違い」ではない時がある

最近特に思うことですが、「正解」を求めすぎな気がします。その結果、正解じゃないものに間違いというラベルをつけることが多くなってきている気がしますが、果たしてそうなのでしょうか?

なかなか正解にたどりつきにくかった時代では、いくつもの正解が存在し、あらゆる価値観の中で僕らは生きていました。(おっさんです)

インターネットの普及に伴い、あらゆるものが検索され、僕らは答えにたどりつきやすくなってきたのですが、たどりつきやすくなってしまったが故に、「正解の幅」が狭まってきている・・・というか、焦点が狭くなっているように思います。

そして「正解」を見つけやすくなったため「間違い」が目立つようになります。光が強ければ影が濃くなるということです。

しかし、それは本当に「間違い」なのかと本来は問うべきです。確かに正解ではないが間違いではないというものも世の中にはあります。・・どちらかというと本来そっちのほうが多いはずです。

僕らは白黒つけられる世界に生きていない。人の暮らしは、人の考えは、人の心はデジタルではなくアナログです。間があるわけです。

正解の反対を「間違い」として定義したほうが、早いのは事実です。しかし、そう定義してしまったとき、そこから疎外や攻撃が生まれやすくなるのはなんとなくイメージできるのではないでしょうか?

例えば、今話題のワクチン問題。いろんな意見があります。賛成派と反対派。それぞれの主張はお互いが「正解」だと思うのです。思想の問題もありますから「正解」なのです。そして少し大人な人はそこで「中立」という言葉を使ってバランスをとりますが、多くの場合は「正解だけ」を信じ、反対側を「間違い」としてしまいます。

バランスがとれないのが今の時代なのかもしれません。

でも、これって「多様性」にも影響が出ているような気がします。以前も書いたことがありますが、多様性って相手を認めることであり、認めてもらうことではないと思うのです。

今世の中で交わされている様々な議論は「正解」と「間違い」の二分が行われ、違いが相手を「間違い」と認識しています。

しかし、ここで相手を「正解じゃない」くらいのポジションで捉えることができたほうが、世の中いい気がするのです。


もちろん中には「間違い」というものは存在します。そういう類は徹底的に・・と思いますが、「正解じゃない」程度の違いを「間違い」とラベリングするのはいささか安直なような気がしてなりません。


ということで、前提として

正解の反対は「間違い」じゃない

という心構えでいたいと思う今日このごろでした。

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