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パルプフィクション

「聖書を読むか?」 (普段から聖書を読んだりしているのか?の意)

 サミュエル.L.ジャクソンが演じるギャングの殺し屋、ジェールズが人を殺す前に相手に言う台詞だ。

 ジェールズは予言者エゼキエルの予言を集めた旧約聖書の一つエゼキエル書の25章の中に記述されている、人間の罪と悔い改めの必要性を強固に語っている文章の一文を相手に語り、殺人の正当性を主張してから殺す。

 人間には自分の行動を正当化しようとする習性があり、あわよくば正義の看板を建てて悪とする相手を攻撃する事もある。

 しかし何をもって悪とするのか?更にその対義語である正義とは何か?を定義しなければ、自分が正義なのか悪なのかさえ曖昧になってしまう。

 

 例えば、最近は自分で自分の事を「天才だ」と言う人は増えてきたようだし、宗教においても「自分の信仰は正しく、自分の行いは正しい」と主張する人間は多い。しかし、人のアイデンティティは主観だけで決定されるものじゃない。

 仮に、お笑い芸人が「自分が一番面白いんや!」と豪語したところで、そのお笑い芸人が一番面白いとは決定しない。

 むしろアイデンティティを決定するのは他者、あるいは他者との関係性や客観性によってアイデンティティは決まるのではないだろうか?

 あえて「正義」と「悪」を定義するなら「公共の福祉に反しない人の権利を守る立場」を正義とし、逆に「公共の福祉に反しない人の権利を奪う立場を悪」とするのは大いに妥当性が高く、これは日本国憲法の人権規定に極めて近い。

 日本国憲法では自由権の土台を基にして生存権や所有権という強い権利があり、さらに細かい自由な諸権利がある。ならば、それらの権利を奪うならやはり悪なのだろうか?死刑制度など合法的に人の権利を奪うのが国家権力である。なら国家は悪なのかというと、そうとも言えない。民主国家においては国民権力の下に国家権力があり、法律は国民によって選ばれた議員によって立法され法制化されていくのだから、日本における法の遵守は正義そのものと言ってよい。

 当然、アメリカでは殺人は犯罪であり重罪。人の生存する権利を非合法的に奪うヴィンセントもジュールスも「悪」である。

  バイオレンスやドラッグや出来損ない達のミックスジュースとも言える本作品では時系列ではなく、シーンを巧妙に入れ替えてストーリーをより感動的にものにする手法が用いられており、脚本の妙が冴え渡っている。

 

 ヴィンセントが主役だが、準主役とも言えるジュールス、ボクサーのプッチなど、主役の陰が薄くなるほどのキャラクターが充実し、圧巻の一作と言えるだろう。

 

 1930~40年代に実在した、短編犯罪小説を掲載した雑誌パルプマガジンから名付けられたとするこの映画をパルプフィクション(低俗な物語)にせず、高尚な名作に仕上げたのは、ジュールス自身が「自分こそが悪だった」と気づけたシーンに尽きる。

 ★★★★★

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