見出し画像

何をどう報道するべき?【『戦後日本のメディアと市民意識』を読んで】

はじめに

 政治コミュニケーション論が専門の大石裕氏が編集した『戦後日本のメディアと市民意識―「大きな物語」の変容』(ミネルヴァ書房、2012年)の感想を述べる。本書は、市民の政治に関する意識の変化に、新聞をはじめとするマスメディアがどのように関わってきたかを論じている。

 第1章から第6章からなり、それぞれを異なる者が執筆している。1,2,3章が包括的な総論で、4,5,6章が具体的な政治問題に沿った各論、といった構成になっている。


「大きな物語」が崩壊していく様相

 宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫、2011年)[過去の感想ブログはこちら]では、社会の意味を規定する「大きな物語」が、90年代を通して失効していく様が記述された。『週刊少年ジャンプ』の連載マンガなどの作品に、時代の様相が表象されているのである。

 同様に、国家をめぐる政治や市民意識大きな物語の崩壊を見ることができると本書からわかった。

一九八〇年代半ばから(日本では昭和の末期)、ソ連を中心とした東欧諸国において政治や経済の民主化や自由化が急速に進み、一九八九年の「ベルリンの壁の崩壊」に象徴されるように、「東西冷戦」が終了したとの認識が世界中に広まった。このことは、それまでの日本の革新陣営の有力なよりどころであったマルクス主義という「大きな物語」に対する根本的な疑問を一段と表面化させたと言える。(p.30)
社会民主党は自民党と新党さきがけとの連立政権を発足させるにあたり、一九九四年に「自衛隊合憲、日米安保堅持」へと路線転換を行った。それにより、戦後日本の政党政治の対立軸に中心であった「日米安保重視-全方位平和外交」という軸は事実上消滅した。それに先立って、非自民勢力による細川連立政権が一九九三年に発足したこともあり、「五五年体制」という「大きな物語」も終焉を迎えることになった。(p.33)

 さらに、その大きな物語の崩壊はマスメディアにも変容をもたらした。

このように情報化とグローバリゼーションの同時進行の中で、また前述したように「大きな物語」が次々に変容し、崩壊することにより、日本社会も新たな国家像、あるいは社会像を模索するようになった。メディアは積極的に海外の情報を伝達し、大衆文化のレベルでは国際交流を促進する一方で、日本という国家社会の求心力を高める方向にも作用し始めたのである。...(中略)...一九九〇年前後にいくつもの「大きな物語」を失った日本社会は、求心力の拠りどころをメディアを通じた情報の共有に一層求めるようになった。(p.39)

メディアは、とりわけ東アジアを中心とする国々との対立を取り上げるなどし、日本の「国益」の擁護を主張して求心力を強めた。また、それは市民の意識の延長線上にあるという(もっとも、本書は10年近く前に出版されたものであり、上記のような状況が現在にも当てはまるかというのは疑問である。むしろ、情報源の多様化が強調されるべきであろう)。

 冷戦の終結やそれに伴う国内政治の地殻変動によって「大きな物語」が変容していく中でマスメディアは「メディア・ナショナリズム」で求心力を強めていった一方で、インターネットの登場による情報の多元化も起こった。前提となる世界観・社会のあり方の解体と脱中心化が、当然国家の政治やメディアにも見られたのである。

 他の書籍で知った内容と並行するように同様の議論が展開されたことにとても心が引き付けられた。加えて、実体社会における「大きな物語」の解体は、『ゼロ年代の想像力』ではふわっとしていたというか、特に国家の政治に関しては詳しく記述されていなかったと感じていたので、冷戦と55年体制の関係から整理できたことが良かった。


沖縄問題:「我々」意識とその先

 第四章は「沖縄問題と市民意識」である。これが、3つの各論の中で私が最も面白いと感じたところである。沖縄の基地に関する問題を市民はどうとらえてきたかについてが、全国『朝日新聞』『読売新聞』や、『沖縄タイムス』や『琉球新報』といった地方紙などのマスメディアと関係も含めて論じられている。

 本章のまとめにあたる最後の節には、以下のような文がある。

以上を通して沖縄問題をめぐる戦後日本のメディアと市民意識の動態が明らかになった。第一は、沖縄問題を「我々の問題」に包摂できない本土社会の状況である。その結果、本土社会のメディアと世論は沖縄問題への関心の高揚と低下(さらには無関心)を繰り返してきた。第二は、本土社会との対立関係に基づく独自の「我々」意識を構築してきた沖縄社会の状況である。本章において繰り返し確認してきたことは、これらの沖縄問題の報道や世論の表出を通じて本土社会と沖縄社会との間に境界線が引かれてきた点である。そしてこの境界線が近年強化されてきたことを確認した。すなわち、沖縄問題をめぐって本土社会と沖縄社会との間で対立が深まっているのである。(p.144)

 「本土」と沖縄の分断は、どちらをも包摂する、すなわち基地問題を日本全体の問題として認識する「我々」の意識の有無と密接に関わっていると思われる。本書で論じられたように、本土が我々意識を持たないから分断が生まれるし、反対の分断が存在するために我々意識が持てないということも考えられるであろう。基地の存在を「問題」と捉え、それを解決しようとするのであれば、沖縄の負担をどれだけ軽減できるのかが鍵になる。とすると、我々意識の構築と分断の解消が必要である。マスメディアの報道は、その方向に転換していくのがよい。

 一方で、その先、つまり「我々」意識を醸成した後も重要である。まず、基地はアメリカ軍の基地であって、日本一国の問題ではなく、相手国の思惑が関わってくる。これは外交問題としても捉えられ、我々が対話するだけでは基地負担は減らないのである。同時に、安全保障上の必要性も議論しなければならない。安全保障上の基地(アメリカ軍に限らないが)がまずどれだけ日本の国土に必要で、戦略上どこにあることがもっとも効果が高いのかといったことを決める必要があるのである。

 次に、それらの整理をした後で、それでももし沖縄に(今ほどかはわからないが)多くの基地負担を「お願いする」必要があるということになったら、それ相応の補償を継続あるいは増額しないわけにはいかない。さらに、それについて「本土」の人間は、「補償を払っているから基地負担をしてもらって当然」という態度をとることを慎まなければならない。

 こういった大規模でダイナミックな問題が山積していることを予想してみて思ったことは、裏を返せば、やはり基地の問題は沖縄のだけの問題ではないということである。循環するようであるが、それを確かめるためにも沖縄問題に関する「我々」意識が必要なのである(もっとも、国家の問題であることを意識するあまり、国政で(生活の中で直接関わるという意味での)本当の当事者の心情から乖離した議論を行わないように注意を払うことは重要になりそうである)。


ABEMA Primeのニュースバリュー

 本書で議論された沖縄問題、公害・環境問題、原子力問題などは、誰が見ても重要な社会問題である。それらはメディアが取り上げるのは当然で、むしろその中身ややり方が本書のように論争の的になる。

 一方で、「メディアがこれを取り上げること自体が問題である」ということがしばしば主張される。私が好きなインターネットニュース番組に『ABEMA Prime』というものがある。「アベプラ」と略される本番組は、地上波の通常の番組では扱われないようなことを取り上げたり、普通のニュースでも違う角度から、あるいは深く掘り下げたりすることが特徴である。ところが、つい最近、当番組があるニュースを扱ったとき、そこに出ているメインMCが「この出来事を取り上げること自体がおかしい」というような主旨の発言をし、数日後に別の議題で別のMCが同内容の発言をした。私はこの「取り上げること自体が問題」論には少し違和感がある。

 ニュース、とりわけABEMA Primeはどういった事柄を取り上げるべきなのか。たとえば、本書で議論から連想できるように、メディアが世論を望ましい方向へ導くように報道するべきであるから、政治的・社会的重要性の高いものを取り上げるべきということがいえそうである。一方でアベプラには、そういった一般に重要と考えられないようなところにも考えなければならない問題がある、ということを示すという意義があると考える。実際に、「取り上げること自体が問題」と断じられたテーマでさえ、無数の論点が立てられるのである。このように、普段考えないようなことにスポットライトを当てることが期待されるアベプラは、掘り下げられそうなニュースならば多様に扱ってほしいのである。

 さらにいうと、「これを扱う必要がない」とすることは、特定の少数の意見を抹殺することになってしまうかもしれない。「取り上げること自体が問題」とされたテーマはいずれも、ある出来事に加えて、それにまつわるインターネット上の賛否両論をも含めてテーマとしていた。そのときのように、意見を「取り上げる価値がない」と思ったときこそ、なぜそのような意見が出てくるのか、あるいはなぜその意見は望ましくないのかということを掘り下げるべきである。なぜなら、それこそが、普遍的な理念の確認・強調に、あるいはそれを批判的に検証する契機になるからである。


おわりに

本書を読めば、社会問題のいたるところにマスメディアの影響があるということがわかる。であるから、おのずとニュースの望ましい取り上げ方が想起されるのである。またそこから発想を飛ばして、メディアが扱うべきニュースは何かということについて、私が普段見る番組と照らし合わせるきっかけとなった。

 自分の中の市民意識が、実は(マス)メディアによって作られたものなのではないか、というのはたまに思うことである。他にもそのような人がいるとしたら、本書は、その一例を知る、あるいはそういった例に対する分析方法を知る手段となるであろう。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?