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「無意識」で政治をアップデート?【『一般意志2.0』を読んで】

はじめに

 株式会社ゲンロンの創業者で、哲学者、作家の東浩紀氏の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2015年)の感想を述べる。本書は、著者が一年半にわたって連載した論考を一冊にまとめたものである。

 巻末には、著者と、本書にも引用されている『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波書店、2010年)[過去の感想ブログはこちら]の著者である政治学者の宇野重規氏との対談が掲載されている。


ルソーを現代的に捉える

 本書のタイトルにもある「一般意志」は、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)が『社会契約論』の中で提唱したものである。

そしてルソーにおいて社会契約とは、人民ひとりひとりが「自分の持つすべての権利とともに自分を共同体全体に完全に譲渡すること」を意味している。社会契約が社会(共同体)を作る。その結果として生まれるのが、個人の意志の集合体である共同体の意志、すなわち「一般意志」だ。ルソーの考えでは、共同体の主権者はこの一般意志であり、したがって市民は一般意志に従わなくてはならない。(p.41-42)

 中学・高校の教科書にもある上記のような説明を読むと、ルソーの一般意志は、目に見えない理念的なものであるような感じがする。ところが実は、ルソーは一般意志は数学的に出せると考えていたようである。

言うまでもなく、筆者はここで、ルソーが一般意志の算出について明確な数式を発見していたとか、また数学史を先取りしていたとか主張するつもりはない。ルソーは数学者ではないし、筆者の解釈も素人の思いつきにすぎない。しかしここで重要なのは、たとえその表現が曖昧で感覚的なものにすぎなかったとしても、ルソーが一般意志を数理的に算出可能なものだと信じていたという、その事実である。(p.51)

 それを基礎に、著者はさらにルソーの一般意志を現代的に解釈する。フロイトの「無意識」を導入するのである。一般意志は、喧々諤々の議論を通して練り上げるというようなものではなく、人々の無意識を数学的に計算してはじき出すものなのである。まるで、前回の記録、季節や時間から会議の飲み物を決定するように。

 もっとも、これは厳密な、実証的な読み方ではないことは著者も意識的に述べている。

フロイトは、ルソーより一〇〇年以上も後世の人物である。ルソーの時代には無意識の概念はない。したがって、一般意志は無意識と繋がるなどという主張はまたもや「拡大解釈」「深読み」にほかならないということになるが…(p.135)

 人々の無意識の欲望を数理的に集積し、それによって統治を行うというのは、私たちの常識や、オーソドックスな政治学とはかけ離れている。どのように可能なのかと思うが、著者は情報化した現代社会だからこそ(将来的に)できる、というように議論を展開していく。にわかには信じ難いが、「夢」を感じる部分もある。

ルソーは、「一般意志」という言葉で、意識的な合意形成ではなく無意識の欲望の集積について語った。彼は、人々が意識していない、意識できない欲望が数理的に集まり、統治の基礎を形づくる理想の国家を夢見た。その理想はルソーの時代には不可能な夢でしかなかったが、わたしたちはいま、彼が夢見ることすらできなかった歴史の道すじ(情報技術革命)を通り、その夢が現実化しつつある時代を生きている。(p.151)


データベースをの用いた統治

  著者は、グーグルやTwitterなど、インターネット上に個々の検索履歴や入力の癖などがデータベースに保存される現代社会を、「総表現社会」ならぬ「総記録社会」と捉え、そこに人々の無意識が蓄積されているとする。

いずれにせよ、来るべき総記録社会は、社会の成員の欲望の履歴を、本人の意識的で能動的な意思表明とは無関係に、そして組織的に、蓄積し利用可能な状態に変える社会である。そこでは人々の意志はモノ(データ)に変えられている。数学的存在に変えられている。(p.98)

 データベースに記録された無意識の集積によって出力される一般意志(ルソーの原典の厳密な意味とは区別して「一般意志2.0」という)に従って政治を行う。フロイトの理論でいうとことの、無意識による行動を意識が制御しているように、無意識の集積たる一般意志2.0を基軸とし、それが暴走しないように熟議も行うということである。この国家観に立つと、政治における「熟議」の存在や、現状の民主主義の在り方は相対化させる。現在の政治の中心であった選挙や議会といった「理性」「熟議」のやり方に風穴を開けるように一般意志2.0を突き刺すのである。

つまりは二一世紀の国家は、熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議の論理により抑え込む国家となるべきではないか。(p.160)


ルソーとの訣別

 以上のような流れで議論が展開されていくのを読んでいると、ひとつ疑問に思うことがある。一般意志は完璧であるはずなのに、統治に対しては熟議と併用するのはなぜか、ということである。

 高校以前の学習でも学んだ通り、ルソーによれば、一般意志は間違わない。それがデータベースによって造れるのであるなら、熟議によって制御する必要がない。究極的には議会はなくていいし、選挙もしないでよい、ということになる。しかし、著者は依然として従来の政治システムも一部残して、一般意志2.0と車の両輪のように使うことを主張している感じである。それはなぜかという疑問がある。

 悶々としながら読み進めていく私に対して、著者はそれを想定してか、その回答を用意してくれている。「やっぱりそうか!よかった!」というのがその箇所を読んだ際の素直な感想である。

けれども、わたしたちはここでルソーと袂を分かつ必要がある。というのも、『社会契約論』から現在までの二世紀半は、また同時に、一般意志がいかに移り気で残酷か、国家が集合的な情念(ナショナリズム)に導かれたときいかに暴力的な存在になるか、その危険を人類すべてが思い知った二世紀半でもあったからである。(p.190)

 定義上間違わないとされていた一般意志も、ルソーが思い描いていたように抽出しても間違うことがあるというのである。著者はさらにフロイトの理論を説明し、無意識(=一般意志2.0)が制御されるべきであると論じた。

フロイトは、ルソーと現在のちょうど中間、まさに情念の暴力が世界を支配した時代に活きた人物である。そんなフロイトは、情念(無意識)がいかに理性(意識)よりも強いか説き続けたが、かといって決して情念の力を肯定したわけではなかった。彼は、無意識はあくまでも制御されるべきものであり、その制御が壊れるからこそ人間は病に陥ると考えていたのである。(p.190)

このフロイトの主張は、前述の一般意志2.0と熟議の関係に繋がってくる。これを改めて導入することで、著者はルソーと離別した、ということがわかってすっきりした。


「無意識」は本当か?

 本書を読んで考えた最大の謎は、著者が「無意識」とするものは本当に無意識か、ということである。

ブログやツイッターに文章を投稿するとき、わたしたちは投稿したいと考えたこと(意識したこと)を投稿しているだけではない。そこで同時に、投稿したいと考えなかったこと(意識しなかったこと)もまた投稿してしまっている。一般意志2・0は、そのような「意識しなかったこと」も集積として立ち現れる。(p.144)

 このような記述は、「確かにな」と思う。強く考えていなかったことが文ににじみ出るということはありそうである。しかし、それが一般意志を形成し、政治(それも熟議によって制御しなければいけない程度)を作っていくかと言われたら、よくわからない。ということで、著者が示した一般意志の活用例を見てみよう。

ニコニコ生放送は、ニコニコ動画の生放送版で、株式会社ドワンゴが提供している動画サービスである。このサービスでは、映像が中継されるだけでなく、それをめぐる視聴者のコメントがリアルタイムで中継映像に重ねられて表示される。撮影されている側も、スタジオにモニタがあれば同時にそれを見ることができる。だから、台本のないゆるやかな討論番組などにおいては、出演者自身がコメントを追いながら会話の内容を調整することができる。…(中略)…しかしニコニコ生放送においては、同じように目の前の相手としか会話を交わらせなくても、その会話の行き先の範囲が視聴者の欲望によって枠付けされているという独特の感覚がある。(p.210,212)

著者は同じように、議会にモニタを用意し、そこに議論に対するコメントを流せば、欲望を踏まえた熟議ができるという例を出した。

 ところが、ニコ生のコメントや、国会中継にコメントが書けた場合に書かれるコメントは「無意識」なのであろうか?むしろ、議論している者や他の視聴者に見られることを想定しながら、内容が伝わるように意識的に書くのではないであろうか。一般意志2.0を作っているのは、無意識ではなく意識なのではないか。

 私は、この齟齬は意識と無意識の図式を国家にも適用したことからくるのではないかと思う。「一般意志を熟議で制御する」というのを「無意識を意識で制御する」と喩えていることから、国家を個人のように見ていることがわかる。

むろん国家と人間は異なる。だから、人間を対象とする精神分析の枠組みを、そのまま国家の分析にあてはまてよいはずがない。それはそうだが、他方、従来の社会思想がしばしば国家を人格モデルでとらえてきたことも事実であり、したがってその連想に意味がないわけでもない。(p.159)

 はじめはそれぞれの個々人の無意識の欲望を一般意志にして統治に活かすという感じであったが、それがいつの間にか、国家を一人の人間とみたときの意識(=熟議)と無意識(=一般意志)という図式にすり替わってしまったのである。そして、「国家の無意識」を作るのが個人レベルでは無意識なのかどうかが問われなくなってしまった。

 ちなみに、本書の最後の対談から、著者はデモもニコ生などと同じように、「モノ化した空気」を政治に反映させる回路であると捉えているとみられる。しかし、デモは意識的な政治運動の最たるものである。国家という視点に立ったら「無意識」と喩えられそうであるが、個々人は意識的に行っているといえよう。

 このように、個人の無意識を計測するということであったのに、国家にとっての無意識というように議論が移っていってしまったため、最後に具体例が出てきたときの「それって無意識の集積なのか?」という疑問が解消されずにいる。


なぜ一般意志か

 本書はルソーを読み直すというところから始まり、その夢を現代の技術で実現するという話になったのであるが、そもそもなぜ一般意志は実現されるべきなのであろうか

 (個人レベルにせよ国家の比喩レベルにせよ)無意識を政治に導入すべきであるとする理由がいまいち読み取れなかった。それは、なぜルソーが主張した政治哲学が正当なのかという問題にも関わる。フロイトが「無意識は制御されるべき」と主張したのならなおさら、なぜ残酷な無意識を導入するのか気になるところである。そこの「そもそもなぜ一般意志の実現を目指すのか」という点の議論をもっと多くしてほしかった。

 もっとも、前述の無意識ではないということも含めて、私が十分に本書の主旨をくみ取れていないだけであるかもしれないので、整合的な解釈ができたという方がいたらコメントで教えてほしい。


おわりに

 集合的決定である政治において、正統な決定をするためには議論することが重要であると一般的に考えられるし、私も当然そう考えていた。ところが、情報技術の発展により、熟議せずともそれが実現する可能性、あるいはそこまでいかなくとも少なくとも政治への回路が増える可能性がある。そういうことが感じられることが本書の一番の魅力である。

 全体を通した論理では難解な部分もあるが、それぞれのところでは丁寧な論証がなされるため読みやすい。おなじみの人物や著作が引用されているのにもなんとなく心が躍った。普段思い描いている政治像をぶち壊してみたい人や、それでもやっぱりリベラルデモクラシーを擁護したい人は、読んでみてはいかがであろうか。

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