「無意識」で政治をアップデート?【『一般意志2.0』を読んで】
はじめに
株式会社ゲンロンの創業者で、哲学者、作家の東浩紀氏の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2015年)の感想を述べる。本書は、著者が一年半にわたって連載した論考を一冊にまとめたものである。
巻末には、著者と、本書にも引用されている『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波書店、2010年)[過去の感想ブログはこちら]の著者である政治学者の宇野重規氏との対談が掲載されている。
ルソーを現代的に捉える
本書のタイトルにもある「一般意志」は、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)が『社会契約論』の中で提唱したものである。
中学・高校の教科書にもある上記のような説明を読むと、ルソーの一般意志は、目に見えない理念的なものであるような感じがする。ところが実は、ルソーは一般意志は数学的に出せると考えていたようである。
それを基礎に、著者はさらにルソーの一般意志を現代的に解釈する。フロイトの「無意識」を導入するのである。一般意志は、喧々諤々の議論を通して練り上げるというようなものではなく、人々の無意識を数学的に計算してはじき出すものなのである。まるで、前回の記録、季節や時間から会議の飲み物を決定するように。
もっとも、これは厳密な、実証的な読み方ではないことは著者も意識的に述べている。
人々の無意識の欲望を数理的に集積し、それによって統治を行うというのは、私たちの常識や、オーソドックスな政治学とはかけ離れている。どのように可能なのかと思うが、著者は情報化した現代社会だからこそ(将来的に)できる、というように議論を展開していく。にわかには信じ難いが、「夢」を感じる部分もある。
データベースをの用いた統治
著者は、グーグルやTwitterなど、インターネット上に個々の検索履歴や入力の癖などがデータベースに保存される現代社会を、「総表現社会」ならぬ「総記録社会」と捉え、そこに人々の無意識が蓄積されているとする。
データベースに記録された無意識の集積によって出力される一般意志(ルソーの原典の厳密な意味とは区別して「一般意志2.0」という)に従って政治を行う。フロイトの理論でいうとことの、無意識による行動を意識が制御しているように、無意識の集積たる一般意志2.0を基軸とし、それが暴走しないように熟議も行うということである。この国家観に立つと、政治における「熟議」の存在や、現状の民主主義の在り方は相対化させる。現在の政治の中心であった選挙や議会といった「理性」「熟議」のやり方に風穴を開けるように一般意志2.0を突き刺すのである。
ルソーとの訣別
以上のような流れで議論が展開されていくのを読んでいると、ひとつ疑問に思うことがある。一般意志は完璧であるはずなのに、統治に対しては熟議と併用するのはなぜか、ということである。
高校以前の学習でも学んだ通り、ルソーによれば、一般意志は間違わない。それがデータベースによって造れるのであるなら、熟議によって制御する必要がない。究極的には議会はなくていいし、選挙もしないでよい、ということになる。しかし、著者は依然として従来の政治システムも一部残して、一般意志2.0と車の両輪のように使うことを主張している感じである。それはなぜかという疑問がある。
悶々としながら読み進めていく私に対して、著者はそれを想定してか、その回答を用意してくれている。「やっぱりそうか!よかった!」というのがその箇所を読んだ際の素直な感想である。
定義上間違わないとされていた一般意志も、ルソーが思い描いていたように抽出しても間違うことがあるというのである。著者はさらにフロイトの理論を説明し、無意識(=一般意志2.0)が制御されるべきであると論じた。
このフロイトの主張は、前述の一般意志2.0と熟議の関係に繋がってくる。これを改めて導入することで、著者はルソーと離別した、ということがわかってすっきりした。
「無意識」は本当か?
本書を読んで考えた最大の謎は、著者が「無意識」とするものは本当に無意識か、ということである。
このような記述は、「確かにな」と思う。強く考えていなかったことが文ににじみ出るということはありそうである。しかし、それが一般意志を形成し、政治(それも熟議によって制御しなければいけない程度)を作っていくかと言われたら、よくわからない。ということで、著者が示した一般意志の活用例を見てみよう。
著者は同じように、議会にモニタを用意し、そこに議論に対するコメントを流せば、欲望を踏まえた熟議ができるという例を出した。
ところが、ニコ生のコメントや、国会中継にコメントが書けた場合に書かれるコメントは「無意識」なのであろうか?むしろ、議論している者や他の視聴者に見られることを想定しながら、内容が伝わるように意識的に書くのではないであろうか。一般意志2.0を作っているのは、無意識ではなく意識なのではないか。
私は、この齟齬は意識と無意識の図式を国家にも適用したことからくるのではないかと思う。「一般意志を熟議で制御する」というのを「無意識を意識で制御する」と喩えていることから、国家を個人のように見ていることがわかる。
はじめはそれぞれの個々人の無意識の欲望を一般意志にして統治に活かすという感じであったが、それがいつの間にか、国家を一人の人間とみたときの意識(=熟議)と無意識(=一般意志)という図式にすり替わってしまったのである。そして、「国家の無意識」を作るのが個人レベルでは無意識なのかどうかが問われなくなってしまった。
ちなみに、本書の最後の対談から、著者はデモもニコ生などと同じように、「モノ化した空気」を政治に反映させる回路であると捉えているとみられる。しかし、デモは意識的な政治運動の最たるものである。国家という視点に立ったら「無意識」と喩えられそうであるが、個々人は意識的に行っているといえよう。
このように、個人の無意識を計測するということであったのに、国家にとっての無意識というように議論が移っていってしまったため、最後に具体例が出てきたときの「それって無意識の集積なのか?」という疑問が解消されずにいる。
なぜ一般意志か
本書はルソーを読み直すというところから始まり、その夢を現代の技術で実現するという話になったのであるが、そもそもなぜ一般意志は実現されるべきなのであろうか?
(個人レベルにせよ国家の比喩レベルにせよ)無意識を政治に導入すべきであるとする理由がいまいち読み取れなかった。それは、なぜルソーが主張した政治哲学が正当なのかという問題にも関わる。フロイトが「無意識は制御されるべき」と主張したのならなおさら、なぜ残酷な無意識を導入するのか気になるところである。そこの「そもそもなぜ一般意志の実現を目指すのか」という点の議論をもっと多くしてほしかった。
もっとも、前述の無意識ではないということも含めて、私が十分に本書の主旨をくみ取れていないだけであるかもしれないので、整合的な解釈ができたという方がいたらコメントで教えてほしい。
おわりに
集合的決定である政治において、正統な決定をするためには議論することが重要であると一般的に考えられるし、私も当然そう考えていた。ところが、情報技術の発展により、熟議せずともそれが実現する可能性、あるいはそこまでいかなくとも少なくとも政治への回路が増える可能性がある。そういうことが感じられることが本書の一番の魅力である。
全体を通した論理では難解な部分もあるが、それぞれのところでは丁寧な論証がなされるため読みやすい。おなじみの人物や著作が引用されているのにもなんとなく心が躍った。普段思い描いている政治像をぶち壊してみたい人や、それでもやっぱりリベラルデモクラシーを擁護したい人は、読んでみてはいかがであろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?