一歌談欒 Vol.1 今橋愛

おめんとか
具体的には日焼け止め
へやをでることはなにかつけること
(今橋愛)


 この文章は.原井さん(Twitter:@Ebisu_PaPa58)の、課題短歌にまつわる文章を書けという企画「一歌談欒」に寄せるものである。

 まず課題作の構造を明らかにする。
 3行分かち書きの体裁を取り、それぞれの行はひらがな・漢字交じり・ひらがなで構成され、各句5・7・5・8・8である。

1.なぜ3行なのか?
 分かち書きという手法は古くからあるものの一般的ではない。まず分かち書きである必然性を読み解かねばならない。が、作者の意識など知ったこっちゃないので読者として感じたことを書こうと思う。
 3行に分割されたこの作品は2行目のみ漢字を用いて書かれている。ひらがな表記から受けるのっぺりとした、間延びした感じとは違い、漢字表記からははっきりとした・客観的な事実の把握といった印象を受ける。いわばこの3行は(内心)(外界の事実)(内心)という位相の異なる事柄をひとつの発話に収めるための工夫ではないだろうか。頭の中で独白しながら一部注釈をつけたような感じを受ける。
 これが一行であったなら表記の違いはバランスを欠くだろうし、分かち書きにするとか括弧でくくるとかそういった表現上の工夫は(意図した効果は同じであれ)読者の印象を左右するだろう。括弧による挿入はいかにも機械的な説明の感じが強く、分かち書きにしたことで種類は違えど同じ一人の発話としてなじませる効果が出ているのではないかと思う。

2.下の句が8・8ですね。
 8・8になっているように見えますね。
 音も余っており、書いてある内容もなんとなく回りくどく長ったらしい。やろうと思えば同じようなことを言いつつ7・7に収める道もあったように思える。もっともそこまで韻律が悪いというわけでもなく、おそらく単語や助詞レベルで見れば定型の7音に含まれる呼吸(わかりにくいと思うけど読む上での間の取り方と思ってほしい。感覚の違いはあると思うし異論は認める。)で構成された8音だからではないかと思う。なんとなく余計なものはくっついてるけど定型っぽさは残っている、みたいな。
 それでも俺は定型が好きだ。

3.結局どういう作品なんでしょうか。
 やっと本題です。ここからが本題です。
 言っていることを書き直すと「今回は日焼け止めだけど、およそ部屋を出るというのは仮面とか何かを自分に付着させる行為である」ということになる。「つける」というのは着けるにも付けるにも通じるので案外良い表記かもしれない。
 しかし「おめん」である。目立つよすごく。自分の正体は隠すけれども存在はアピールしまくるものであるよ。例えば服装は自己表現の一つであるという言説がある。これはよく言われることでその通りだとも思う。この作品が言っているのも概ね似たようなことで、「へやをでる(=人前に出る)」ことはなんらかのキャラクター付けをして行う行為であるということだろう。意識的にせよ無意識的にせよ、人はとにかく持っている服を着るし、必要なら薬品の類も付けて出かけることになる。それは出会う人々に自分の人間性をうかがわせる手がかりになるし、あるものはトレードマークとしてその人を象徴する存在にもなりうるのだ。
 そこで「具体的には日焼け止め」である。つまりこの人は、人は何らかのセルフプロデュースを行って人前に出ていくということを認識しながら、しかし自分は必要最低限のものしか付けることはないと言明しているのである。化粧とかアクセサリーとかしないんだろうなあ。
 ひらがな表記のぽやぽやした印象とか、強い言葉もなく平坦な語り口とか、そんな部分部分に反して「私はなるべくありのままの私で生きていくんだ」と言い切る作品なのだろうと思う。意外と強い心だ。断定形なのがここで活きてくる。

 この作品は、なにか心が動いてそれについて書き記したタイプの作品ではないと思う。自分が思うところをかなり迂遠な形で主張するタイプの作品だ。賛歌でも挽歌でもなく、主張である。果たしてそれは“心を歌い上げる”という営為に含まれるのかちょっと疑わしい。要するにこれは現代短歌の作品だが本当に“歌”なのか? という疑問を呈するのである。
 わざわざ改行したのはこの“歌”の在り方について散々悩んでいるからで、これは読解ではなく疑問を吐き出しているにすぎない。
 この作品を字面通りに読むなら、「へやをでること」を「なにかつけること」と再定義する作品、これに尽きる。しかし読み解こうと思えば上述したような主張を見出すことも可能だ。それはある種の叫びとも捉えうるし、明確な主張をすぐにはそうと気付かれない形で表現してみせたこの作品は紛れもなく詩であろうとは思う。(無論それはこの読解が正解ならば、という話だが。)
 ではこの叫びは歌なのか。あなたはこの33音を歌うことができるか。いかなる旋律を見出すか。「私はこういう人間だ!」と叫ぶことと、「この景色は美しい、私はその美しさをこのように理解した!」と叫ぶこと、「私はこうありたい!」と叫ぶこと。例示したどれも自分を語る叫びだが果たして同種の叫びであるか。どの叫びなら歌と認めうるか。
 短歌として世に出され短歌として受容されている作品を短歌であるかと問い直すことに意味があるのかどうかは知らないが、俺はとても気にしているしもう少し気を配られてもいいんじゃないかなと吼えてこの文章を締める。


╭( ゝㅂ・)و <終わッた!

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