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死にたいというより「生きているのが面倒くさい」

死にたいと思っていると錯覚していたのかもしれない。

今のご時世はわりといろんなところで死にたいとか、生きていたくないとかそんな類の言葉が目に入ってくる。

そのせいで死にたいっていう言葉の安売り感を無意識のうちに感じていたのかもしれない。

それで自分でも死にたいと思うようになったのだと思う。


死にたいと思うことが多くなった時期、僕はいろんなことで苛ついて、もどかしさを感じていた。その度に死にたいなあと頭の中だけで呟いていた。

もとから、なんで生きてるのかわからない状態で生きていたから、時々自暴自棄とまでは言わないが全て投げ出してしまいたくなったこともある。

目的もなくぼんやりと流れに身を任せて、ちょっとしたことで苛ついていた。

なにも考えずに消えたかった。

でもそれは「死にたい」ではなくて「生きるのが面倒くさい」だけなんじゃないかと最近になってようやく理解し始めた。

もちろん僕は心理学者ではないから、この感情がどちらに近いものなのかははっきりとわかっているわけじゃない。

でも自分の中で後者に近いだろうという確信みたいなものは確かに存在している。

生きていると苛ついたりするから面倒だなあみたいなニュアンスだ。

あくまでも死にたいではない。と思う。思いたい。

つまりは、存在を消したい。ってことなのだろう。

自分を生まれなかったことにして消え去りたい。そんな感じ。

そうすれば「生きている」状態にならないから。

「死にたい」は自分を殺したいってことだからちょっとベクトルが違う。

もし僕が生きていたいと思えるようになったら、このよくわからない感情も消えるのだろう。

できれば今すぐに消し去りたいところだが、そんなことはできないのでゆっくりと抗ってみることにする。

「死にたい」が「生きるのが面倒くさい」になったことは文面だけみたらましになったようにも見える。

それだけでもとても大きなことだと思う。






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