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2023.7.3 静寂考:およびKJ法におけるその応用について


静寂は、ときに大変動的な営みである。

 「静寂」という概念は、その意味するところが東洋人(日本人)と西洋人の間で大きく異なる。

 日本人は、言葉を発していないときでも、全身を使ってコミュニケーションをとっている。いわゆる、「空気を読む」、「相手の気配を読む」、「察する」という現象である。これは、宮本武蔵の「見の目、観の目」に通ずるものである。このように、日本人は何らかの非言語的な、または無形の・目に見えない情報を媒介としたコミュニケーションを通じて、何かしらの全体的な志(メッセージ)を感知し、共有していると私は考えます。 
 
 ただし、他方で西洋人にこのような全身的なコミュニケーションは存在しないかと問われれば、分かりません。私は西洋人の身体を持っていないため、西洋人にとってこうした察するコミュニケーションがどのようなものであるか、どのように感じられるかはわかりません。もしかしたら英語を話すようになったその過程でそれを身につけ、今でも英語で話すときには無意識にそれを行なっているかもしれませんが。

  上記の前提に基づくならば、現代人は日本人・外国人ともに“感性(体による知性)”を失っているかもしれません – 川喜田教授も著作の中で指摘されているように。したがって、私たち現代人の多くがKJ法を行う際、体系的に形式化されたKJ法の手続きの一環として組み込まれている「静寂」に関し、“音(声)を発しない”という客観的形式に従っているだけであり、その行為はしたがって上述のような非言語的・無形的・非視覚的な領域におけるコミュニケーションが伴っておらず、本質的にKJ法として意味をなさない、もしくはKJ法を行う際に、そしてその結果に、大きな差として現れると推察する次第です。 

 何が言いたいかと言うと、KJ法のプロセスの中で、みんなでワイガヤ議論をするフェーズと対称になっている、みんな黙って自分自身のラベル作成や空間配置と向き合う「静寂」のフェーズが、実はその場の空気感を背景にしながらラベルの志を紐解いてゆく・形成してゆくという、非常に内側に向かって動的な、一貫してチームワークの技法ではないのかと思うのです。 

“考える”場所: 西洋的身体 vs 東洋的身体

 この点に関し、デュルクハイムによる『肚』(www.amazon.co.jp/dp/489205464X)は、西洋人と日本人の言語的・非言語的コミュニケーションの対比をより明快に理解するための示唆に富んでいます。本著からインスピレーションを受けた私の仮説でありますが、アングロサクソン人(いわゆる、西洋人。主にイギリス人。)は彼ら・彼女らの頭(脳)に「“感じる”場所・“考える”場所、そして心の在り処」を持っているというものです。

 別の言い方をすれば、私の仮説は、西洋人の心は彼ら・彼女らの頭にあり、したがって西洋人にとっては「脳による思考と、心による思考が同じ場所で行われている」というものです。一方で、日本人は元来「肚文化」を持ち、“考える”ための脳は頭にあると仮定し、“思う”ことと“意思決定”のための心は、川喜田教授も指摘するように肚にあると考えます。つまり、脳による思考と心による思考が人体の異なる場所で行われているのです。

 そうなったとき、ヒトの決断は“心”において下されたものが最良となり、現実に影響を与えます。とするならば、西洋人にとっては脳と心が同じ場所にあるため世界はうまく回りますが、そうではない日本人(やその他の非西洋文化圏の人々。ネイティブアメリカンは胸(心)で考えると言う。)は脳と心が違う場所にあるので、自然と脳的な思考で、つまり心(直感)は違うと教えてくれているときに、それに従わずに他者の意見やデータを頭脳で処理して“合理的”な判断をした場合、うまくいかないことがほとんどではないでしょうか。少なくとも、私自身のこれまでの経験ではそうです。

汎神論 vs 自然真営道→純粋経験→KJ法

 西洋人がスピノザの汎神論、つまり神と自然(世界)を同一視する視点をどのように見ているのか、甚だ関心があります。この視点は、江戸時代の社会思想家である安藤昌益の「自然真営道」と比較され、オックスフォード大学の日本歴史学の試験でも問われました。このような視点は、日本文化の中で代々受け継がれてきたものであり、おそらく日本のアニミズムである神道にその起源を遡ることができるのではと推察します。

 安藤昌益が没して約200年の後、西田幾多郎は「純粋経験」という概念を提案しました。これは、各個人が世界と干渉する(相互作用する、繋がる)その刹那、「自己」の認識がない状態の経験を指します。つまり、「世界は自分であり、自分は世界である」状態です。たぶんこれは、良質な睡眠状態やセックスのエクスタシー状態と同じ、もしくはかなり近いエネルギーで世界を捉えている状態ではないかと、2023年現在の私の知見において思っています。

 この純粋経験の精神・哲学は、西田幾多郎による京都学派の営みの中で、今西教授から川喜田教授に引き継がれていたのではないかと思いを巡らせています。さらに言えば、その身体性が継承されてきたのではないか、ということです。そして、この“自己”と“世界”の統合、もしくは没入こそが、KJ法の本質的な能力にアクセスし、KJ法の本来の使用を可能とする鍵ではないかと考えています。 

むすびに:統合のKJ法

 KJ法の本質は、「全体性」を見ること(観ること)です。その全体性の中に、さまざまな関係性や要素のつながりが内包されており、全体性を背景にした各個が、そしてその総体である全体が存在しているんです。この視点を無視したまま、KJ法の本質、真髄、深淵に迫ることは無理でしょう。ただし、西洋人は明快でかっちりとした答え、確固たる理解、またはきっちりとした枠組みを求める傾向があります。この西洋的な考え方と、全体性に求心する日本的な考え方のどちらが優れているのか、という議論はナンセンスです。これらは、単なる特性です。私たち日本人(または東洋人)に、あるがままに世界を受け入れ、理解する傾向があるように。

 東洋にも西洋にも、一長一短があります。しかし、KJ法についてより思慮深くなるとき、またKJ法の理解と発展を開拓する際には、この全体像(全体性)への視座が欠かせないということを今回は強調したいと思います。

 最後に、あらゆる物事において。この問題は常につきまとうことでしょう。つまり、一切の改変を行うことなく“正しい”方法を引き継いでいくのか、またはその正則的な方法を現在の世界により適した形に改訂して継承していくべきか。

 私の答えは、次の通りです。我々の研究によって笑って暮らしてくれる人がいる社会を志向し、真の観察眼と審美眼によって今を生きる人々をきちんと“観た”上で必要だと判断した改訂(すなわち改善)のみ、私は受け入れます。この目的のために、川喜田教授はKJ法の中に、暗黙的に更新の余地を残しました。これは日本の文化における「守破離」であります。不要なことに、固執し過ぎないでください。伝統を守ることと、現実と伝統の乖離を解消していくバランス感覚の調和こそが、私の思うKJ法です。


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