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肉体と衣装をめぐる強さの表象――鈴木清順『肉体の門』におけるファッションの意味作用――

目次

はじめに
1.強く見せるための衣装
2. 強さへのあこがれ
3. 愛を知った女
おわりに

 

はじめに

 鈴木清順(1923-2017)は、戦後日本を代表する映画監督である。鈴木は1956年に『勝利をわが手に 港の乾杯』で日活の専属監督としてのデビューを果たしたのち、『東京流れ者』(1966)や『殺しの烙印』(1967)など多くの日活映画を手掛ける。大胆な映像構成と色彩表現による彼の作品は、当時の若者を中心に人気を博し、その先鋭的な作風によって日活を解雇された際は、「鈴木清順問題共闘会議」という団体が結成されたほどであった。
 本論で取り上げる『肉体の門』(1964)は、鈴木の日活在籍時代に撮られたものである。本作品は田村康次郎の代表作である同名小説(1947)を原作としている。『肉体の門』は、原作の謳った性の解放という主題を踏襲し、終戦直後の日本を生きるパンパンたちの強くありたいと模索する姿を鮮烈に描く。作品のなかで主人公であるマヤ(野川由美子)が見つけた強さとはなんだったのか。
 この問いについて答えるために、本論では登場人物の衣装に着目したい。なぜなら、『肉体の門』において主人公をはじめとする女性たちは、昼間は色鮮やかで華やかな衣装を身につけている一方、自らの肉体をさらけ出して日々の暮らしを得ているからだ。この二面性が彼女たちの強さに対する欲望にどのように関わっているのかについて迫る。加えて、映画研究において、衣装に着目したものの数は依然として少ない。前述したように鈴木はその色彩感覚で著名な作家である。『肉体の門』に登場する刺激的な色彩の衣装について考察することで、彼の作風である清順美学に新たな解釈を加えるとともに、映画研究の幅を広げたい。

 

1. 強く見せるための衣装

 『肉体の門』は、主人公のマヤが街娼であるいわゆるパンパン達の仲間に入り、愛する人を見つけた代わりに、「ただで男と寝ない」という仲間うちの掟を破ることでグループを追い出されるまでを描いた作品である。マヤをはじめとするパンパン達は、不自然なまでに赤や緑、黄色に紫といった原色の衣装で全身を揃えている。彼女たちはなぜこれほど派手な色彩の衣装を身に纏っているのか。この衣装にはどのような効果があるのか。マヤがパンパンのグループに入る前の衣装と、グループに入ってからの衣装とを比べてみよう。
 マヤがパンパンの仲間にはじめて出会った場面は、物語冒頭で腹を空かせたマヤがふかし芋の屋台から思わず芋を盗み、捕まってしまったシーンである[1]。グループに入る前のマヤは、ぼさぼさの髪に着古して薄汚れたもんぺ姿であり、いかにも貧乏そうにみえる。このシーンにおいて、マヤは芋を盗んで即座に逃げようとするも、街を統括するやくざの阿部(和田浩治)に捕まってしまう。阿部はマヤを咎めることはせず、その代わり、勝手にマヤを米兵に周旋する。このとき、阿部はカメラに背を向けた状態であり、カメラは阿部の背中を画面いっぱいに捉えている。このことにより、阿部が着ている舶来品のワッペンが付いた革ジャンが強調される。彼は終戦直後に外国製の革ジャンを持つことができるほどの金持ちなのである。この次のショットでは、マヤが画面の中央でボロボロの小さな麻袋を体に引き寄せ、身を縮めている様子がミディアムショットで撮られている。麻袋や画面に映るマヤ自身の小ささから、彼女と阿部における経済的な対照性が浮かび上がる。
 これから待ち受ける事態に怯えたマヤは、阿部からも逃げようとするが、カメラはマヤを追いかけることはせず、彼女はさらに小さく、画面中央へと移動する。阿部はすぐにマヤに追いつき、地面に倒れ込んだマヤを革ジャンで何度も叩きつける。前のショットで阿部の豊かさを強調した革ジャンで地面に打ち付けられることによって、画面に小さく映り込んだマヤの貧しさや脆弱性はより一層際立てられる。このシーンから、パンパンのグループに入る前において、マヤは一日を生きるのにも精一杯な貧しく力のない存在として表象されているといえよう。
 この後、マヤはグループのリーダーであるおせん(河西都子)に助けられ、パンパンの仲間に入れてもらうことになる。パンパンとして街に立ったシーンでは、マヤはノースリーブにベルトの付いたAラインの前開き式ワンピースを着ている[2]。ノースリーブはマヤの二の腕を露わにし、ベルトとAラインでウエストを強調することで、このワンピースは彼女の体の女性性を目立たせている。ワンピース以外にも、バンダナで髪をかきあげて額を見せるほか、緑のアイシャドウや赤い口紅を顔に施すなど、彼女のファッションには、過剰なまでに女らしさが表現されている。
 このショットでは、画面に他のパンパンたちも映っているが、マヤは全身を緑色の衣装で統一しており、暗闇の中でひときわ目立っている。彼女は足と腕を組んで柱に寄りかかり、上目遣いで微笑みながら道行く人に視線を送っている。前述したもんぺ姿のシーンとは打って変わって余裕があるようにみえる。空腹のあまり人目を忍んでふかし芋を盗み、捕まってしまった孤児のマヤとは違い、自らの女性性を堂々と主張して、彼女自身が客を捕まえようとしているのだ。
 客を見つけてからも、マヤは硬いパンプスに堪えることなく、荒廃した空襲の跡が残る街を男性客に先立って歩く[3]。男性客はがれきの中の一室に入るなり、マヤに掴みかかって服を脱がそうとする。しかし、マヤは「慌てんじゃないよ、洋服を脱ぐ間くらい待ったらどうなんだい」と低く、気迫に満ちた声で言い放ち、男性客を振り払う。その言葉を聞いて、彼は急かされたようにかがんでズボンを脱ぎだす。マヤもワンピースのボタンをゆっくりと開けて脱ごうとするが、その目はかがんだ男性客を馬鹿馬鹿しいといった様子で見下ろしている。己の性欲を抑えることができない男性は、ズボンを脱ぐ動作によって背を丸めることによって小さく表される一方、自分に向けられた性欲を冷ややかな目線で受け止めることのできるマヤは、立ったままの状態で男性よりも大きく表されている。このことから、パンパンとしてのマヤは男性の性欲に臆することがないのは明らかである。それどころか、彼女は自ら女性性を強調することによって、受動的に消費されることにとどまらない強い存在として演出しているといえるのではないか。
 したがって、パンパンのグループに入る前の汚らしい、着古したもんぺ姿のマヤは、街の権力者である阿部の高価な革ジャンとの対比によって貧しく弱々しい存在として表されていた。このこととは対照的に、グループに入りパンパンとなった彼女は、女性性を強調するファッションで男性客を堂々と誘う一方、男性客の性欲を拒絶することも厭わない屈強な存在として示されるのである。つまり、パンパンの衣装はマヤを強くするのである。しかし、女性性を強調した衣装を身につけると、なぜ彼女は強くなるのだろうか。
 マヤが服装を緑一色で統一していることに注目したい。『肉体の門』にはマヤ以外にも多くのパンパンが登場するが、マヤと同じグループのパンパンを除けば、他のパンパン達は一色で全身をコーディネートすることはない。彼女たちは靴下から下着に至るまで、文字通り全身に同じ色の衣装を身につけている。異常ともいえるほど一色で統一された衣装は、暗闇の中でも鮮やかに映り、日中においても、男性客はもちろん、競争相手であるはずの他のパンパン達でさえ振り返るほどである[4]。
 つまり、マヤの鮮やかな全身を緑で統一したファッションは、その異常性ゆえに人からの視線を集めるのである。女性が性的対象として見られる場合、見られることは受動的であるため、弱さとして取られることが多い。だが彼女のこの衣装の奇抜な色彩は、男性に見られるということに先回りして、女性性が強調された衣装の形式を見せている。自ら女性性を強調し、異性からの視線を集めるというこの積極性が、元来弱い者として見られてきた女性であるマヤ達を強い者として映し出しているのではないか。そのうえ、同性である他のパンパン達にとっても、視線を投げかけられることは多ければ多いほど稼ぐための好機であり、より多くの視線を集めるマヤ達は強権的に見えたことだろう。したがって、マヤとその仲間のパンパン達は性的対象として見られる前に見せるという積極性のために、強いのである。
 以上のように、本節ではマヤとその仲間がなぜ派手な色彩の衣装を身に纏っているかを明らかにした。彼女たちは、自らの女性性を強調した形の衣装をさらに目立たせるために、鮮やかな色彩の力を借りたのだ。彩度の高い衣装は夜目にも清かに彼女たちの姿を映し、異性からの視線を彼女たちに集中させる。街に現れた彼女たちは、男性客から見られる前に自らの性を強調し、彼らを誘う。そこにかつての弱い孤児であったマヤはもはや存在しない。衣装が彼女を変身させたのだ。

 

2. 強さへのあこがれ

 マヤ達は人生を生き抜くために、他のパンパン達に対しても、また男性に対しても強くある必要があった。そのために、彼女たちは目を見張るような鮮やかな色彩の女性的なファッションに身を包んでいたのである。
 しかし、彼女たちは揃いも揃って、伊吹(宍戸錠)という男性に心を惹かれる。伊吹は彼女たちの住処に居候する復員兵である。彼女たちは伊吹に気に入られようと、彼の好物を拵え、機嫌を取るような御託を並べるようになる。彼は傷を負った状態で匿ってくれと彼女たちに頼み込んできたはずが、いつのまにか彼女たちに食事の世話をさせるほど強い立場に成りあがってしまったのである。強さを手に入れたはずのマヤ達をひれ伏させる伊吹には、いったいどのような強さがあるのか。彼女たちと伊吹のファッションを比較することで、彼の強さの表象について明らかにしたい。
 マヤをはじめとする仲間たちが伊吹と出会うのは、雷雨の晩である。彼は進駐軍に追われ、足から血を流しながらマヤ達の住処である半地下の廃屋に転がり込んできたのである。しかし、彼はその前に一度マヤの仲間の一人であるおせんを買っていた。そのときのおせんと、マヤ達の下を訪ねてきた伊吹のファッションの撮られ方を比べよう。
 雷雨の晩に伊吹は安ホテルでおせんを買う[5]。画面中央の寝台に寝転んだせんには、窓から月明かりが刺しているが、部屋の隅にいる伊吹は影になっていてよく見えない。彼女が不意に立ち上がると、月明かりの代わりにスポットライトがカメラと共に彼女を追う。スポットライトによって暗い部屋の中で彼女の姿は明瞭に捉えられたうえに、移動するカメラによって画面中央に固定された彼女の姿は、彼女を見られる対象として位置づける。だが、せんは気にも留めない様子で鼻歌を歌いながら下着を寝台の上に脱ぎ捨てる。彼女自身も再び寝転がり、伊吹が体を重ねるのを待つ。彼女はスリップやリボンを身につけたままであり、決して裸になる素振りは見せない。前節で述べたように、客と寝るときにおいても、彼女は鮮やかな色彩を身に纏い、異性からの視線を集めようとしていると考えられる。
 他方、マヤ達の住処である廃屋を伊吹が訪ねるシーンでは、彼が見られる対象になっている[6]。突然廃屋に侵入してきた彼は、進駐軍に追われ、足に傷を負っていた。彼の服装は、上半身にはランニングシャツを一枚着ているのみである。むき出しになった彼の両腕には隆々とした筋肉がついており、彼の汗と断続する雷の光によってその凹凸は強調される。外が雷雨という危険な天候であることを忘れさせない雷の光と、その天候のなかを進駐軍に追われたことによってかいた汗による筋肉のつやめきは、彼を勇敢で屈強な男性として見せている。彼が履いているズボンの裾からは血が流れており、ランニングシャツに血が付着していることや手首にまかれた包帯、手にしている杖と合わせて考えれば、彼の身体が危険な状態にあることは明らかである。
 おせんが過去に客として伊吹の相手をしたことが分かると、マヤ達は彼を介抱することになる。マヤが消毒用の焼酎を買ってくると、ランニングシャツを脱いだ伊吹は口に含んだ焼酎を傷口に吹きかける。このとき伊吹の上半身は裸になり、その背中には二つの弾痕が確かめられる。復員兵である伊吹にとって弾痕は戦地を潜り抜けた証であり、傷口を焼酎で消毒するという手荒な手当に慣れていることからも、彼の戦地での経験がうかがえる。伊吹は画面の手前でカメラに背を向けて位置しているため、大きく映された彼の背中の筋肉はより逞しくみえる。
 したがって、彼のランニングシャツを着ているのみのファッションは、彼の肉体そのものを引き立てている。その肉体は雷の光や汗によって潤沢を帯び、女性の肉体にはない剛健な印象を彼に与える。彼のその筋肉隆々とした肉体には、戦争で浴びた銃弾の痕や進駐軍に撃たれて流れた血が認められ、戦時中に彼が幾度の修羅場をくぐってきたかということを思わずにはいられない。それゆえ、ランニングシャツにズボンといった簡素ないでたちは、彼の男性性と危険に臆さない屈強さを映し出すキャンバスなのである。
 以上のように、復員兵の伊吹はマヤ達パンパンにはない強さを持ち得ているといえよう。しかし、彼女達自身にも固有の強さはあるのにもかかわらず、なぜマヤ達は彼女の強さに惹かれるのだろうか。上述したシーンにおける両者の強さを比較してみよう。
 この二つのシーンは、光と脱衣という点で両者に共通する。光という点については、せんはスポットライトに照らされている。スポットライトによって、彼女は見られる対象として映し出されていることが分かる。客体化された彼女は、スポットライトだけではなくカメラにも追われ、鑑賞者の視線は彼女にくぎ付けにならざるをえない。他方、伊吹を照らす光は雷である。雷は彼が逃げてきた道が危険だったことを物語っており、その光で筋肉の凹凸を強調し、危険を乗り越える強さを持った存在として彼を表している。
 服を脱ぐという点については、せんは下着は脱いでもスリップやリボンは身につけたままで、彼女の肉体の全貌を見せない。彼女の体に残された鮮やかな衣装は、彼女の女性としての肉体へと視線を引き付ける。伊吹の場合は、ランニングシャツを脱ぎ、彼の上半身を露わにした。ランニングシャツを脱いだことにより、彼の筋肉や傷跡は剝き出しになり、より男性性や強靭さが強調された。
 つまり、どちらもファッションによってそれぞれ女性性、男性性が強調されているのだ。しかし、その性質から生まれる強さの仕組みは異なる。伊吹の場合は、肉体それ自体が強さを持っている。彼にとっては、服を脱ぎ、ありのままの自分になることで一番自分本来の強さが伝わるのだ。
 だが、せんをはじめとするマヤ達パンパンはそうではない。せんが床の上でもスリップやリボンを脱がないのは、彼女たちが装うことによって強くなっているためである。前述したように、彼女たちは見られることに先回りして過剰に装うことによって、視線を集めるために強さを得ているのであった。しかし、裏を返せば、パンパンの衣装を身につけなければ、彼女たちは弱い存在であるということでもある。過剰に装うという積極性がなければ、彼女たちは受動的に性的対象として搾取され続けるのである。言い換えれば、パンパンとしての衣装を身につけたところで、マヤ達は女性が持っている弱さを本質的に乗り越えたとは言えないのだ。だからこそ、彼女たちは強くありたいと思い、ありのままで強さを感じさせる伊吹に憧れるのではないか。
 本節では、強さを身につけたはずのマヤ達を魅了する伊吹が、どのような強さを持つのかについて検討した。彼は彼自身の生得的な男性性と危険を顧みない勇敢さを持つことにおいて強いのである。他方、マヤ達は弱さを持ち合わせる女性性を強調することで、逆説的に己を強く見せている。彼女たちの強さは迂回したものであり、本質的な強さではない。それゆえ、彼女たちは伊吹の持つ純粋な強さに心を奪われ、憧れたのだ。

 

3. 愛を知った女

 マヤをはじめとするパンパン達は、野性的な伊吹の強さに憧れた。なぜなら、彼女たちの強さは自らの客体性を逆手に取ったものだからである。しかし、自分を取り巻く四人もの女性が自分を好いているのにもかかわらず、伊吹は我関せずといった具合で彼女たちに取り合うことはない。それどころか、彼はグループ内の「ただで男と寝ない」という掟を破ったマチ(富永美沙子)に興味を引かれる。このことから、マチは伊吹を手玉に取ったという点でマヤ達よりも強いといえる。伊吹を魅了したマチの強さとはいったい何なのだろうか。この問いに答えることによって、マヤが見つけた強さについて探りたい。
 マチはマヤ達と同じパンパンのグループに属していながらも、好いた男から金を取らずに床を共にしてしまう。このことがグループ内に知られてしまったことにより、彼女は折檻を受ける羽目になってしまったのだ。しかし、伊吹は虐げられるマチを傍観し、彼女への好意を口に出す。伊吹がマチへの好意を初めて口に出すマチの折檻が行われるシーンでの、彼女のファッションを見てみよう[7]。
 折檻を受ける前のマチのいでたちは、黒の色無地に白一色の帯で、髪は簡素なまとめ髪である。彼女のファッションは、第一節で述べたような女性性を強調した鮮やかな色彩をしているマヤ達のようなものではない。マチは着物に包まれて平面的なシルエットをしており、黒一色の着物は遠目には、彼女の姿を雑踏の中に溶け込ませてしまう。彼女もパンパンであるにもかかわらず、一目見ただけではマチがパンパンであるとは分からない。マチはなぜ自分の存在を客に主張しようとしないのだろうか。
 その理由は、彼女に間夫がいることにある。マチには結婚の約束まで取り付けようとした男がいるのである。そう考えれば、最低限稼ぐほかは他の男に買われないように、むしろできるだけ目立たない格好をすることは想像に難くない。マチの慎ましやかな服装は、彼女の情夫に対する貞操観念によるものといえよう。
 情夫があることが知れてしまったマチは、マヤ達に服を脱ぐように言われ、自ら着物を解く。襦袢一枚になった彼女の顔は微笑みを浮かべてさえおり、マチは脱ぐことに抵抗がないかのようである。髪をほどかれ、全裸で張り付けられたマチに、せんを筆頭としたマヤ以外のパンパンが鞭打つ。せん達はカメラに背を向けた状態で手前に大きく映し出されており、画面の奥に小さく映っているマチは彼女たちとは対称的に弱い存在に見える。彼女たちが三人ともスリップやリボンを身につけたままであることに対して、マチが全裸であることもまた強調されている。せん達が大勢で服を身につけたまま折檻を繰り広げていることに対して、マチは身一つでたった独り罰を受けているのだ。
 絶え間なく鞭を打つせん達に、マチは「あんたたち男を愛したことがないんだわ。身体の秘密を知ってるあたしに嫉妬してんのよ」と告げる。このとき、部屋の隅で終始傍観していたはずのマヤの目元が、マチのミディアムショットにオーバーラップする。汗ばみ大きく見開いたマヤの目元から、マヤにとってマチの発言が的を射ていたことがわかる。つまり、マヤは男を愛したことがないのだ。対して、マチは男を愛している。マチは男を愛しているからこそ、他の男性からの視線を誘い出すような派手なファッションに身を包まず、自ら服を脱いで裸になり、折檻を受けることを躊躇しなかったのだ。マチにとっては、男性から見られる前に男性の眼中に自らを差し出すという見せかけの強さは必要ない。彼女にとっては、ただで男と寝たことを否定し、脱ぐことを断って折檻を回避する必要もない。なぜなら、これらの行為は愛する者を裏切ることだからである。マチの服装や脱ぐことは、彼女による愛の肯定である。愛することこそが彼女の強さなのだ。
 このマヤの驚いた表情のオーバーラップの後も、せん達によるマチへの折檻は続く。マヤはまたも傍観に徹するが、このオーバーラップの後からは、マチが鞭で打たれて喘ぐたびにマヤも苦悶の表情を浮かべるようになる。マヤの苦しみ、歪んだ顔はマチの痛々しい表情の顔に被さるようにまたもオーバーラップで映し出される。苦しげな表情だけでなく、乱れた髪がかかった体は脂汗が浮いて照っており、まるでマヤにマチが憑依したかのようである。
 しかし、マヤの痛ましげな表情はマチとは異なる。上を向いて喘ぐマヤの表情はローアングルで撮られており、その頬は赤く染まっている。さらに、一度その表情を浮かべたとしてもすぐに平生の顔に戻ってしまうのだ。実際マヤは部屋の隅でマチの折檻を眺めているだけであり、裸になって痛みを感じているわけでもない。マヤはマチの苦悶に満ちた表情を真似ているのだ。つまり、マチの表情を真似ることによって、マヤはマチへの同一化を図り、伊吹の興味を引くほどの強い女に接近できたことに対するエクスタシーを感じているのではないか。
 マヤがマチの表情を真似、その様子がマチの折檻されているショットにオーバーラップしているからというだけでは、マヤがマチへ同一化することに対してエクスタシーを感じている理由には足らないかもしれない。だが、マヤがマチに対する伊吹の反応をどのように受け止めていたかを考えれば、マヤのマチへの志向性が浮き彫りになる。
 折檻のシーンにおいて、縄で吊り上げられたマチの裸体を見た伊吹は、「くっそー、いい体してやがる」と思わず感嘆の息を漏らす。その瞬間、マヤが驚いて伊吹の方を振り返ったカットが挿入される。マヤが振り返って見た伊吹は、先ほどのカットよりもカメラに寄られ、赤く火照り舌なめずりをしている彼の表情が強調されている。伊吹はマチの裸体にくぎ付けなのである。この次に、伊吹の表情をじっと見ながら呼吸を荒くしたマヤは、伊吹とマチの間で目を泳がせているカットが続く。これらのカットはごく短い時間において展開され、伊吹のマチに対する欲求と、対するマヤの焦りがいかに性急であったかを物語っている。つまり、マヤは伊吹のマチの体に対する明らかな性欲を目の当たりにし、マチに伊吹を奪われるかもしれないと焦ったのである。それゆえ、マヤはマチに自分を仮託することで自分が伊吹を骨抜きにするような存在であると錯覚し、悦に入ったのだ。
 したがって、マヤはマチの強さに憧れているといえる。パンパン達は自分を守るために虚勢を張っているが、マチの強さは見せかけではないありのままの強さである。マチは愛する者のために自分を犠牲にすることを厭わない。その飾らない本来の姿での彼女が持つ強さは、剥き出しの肉体に見いだされる伊吹の強靭的な強さに共通するのではないだろうか。マヤは伊吹の強さに強く惹かれると同様、マチの強さに自らの強さへの可能性を見出したのだ。
 マヤは物語の結末で、遂に伊吹への想いを遂げる[8]。皆が寝静まった後、マチへの折檻に使われた跡である縄や剃刀を見て、彼女は昼間の惨劇を思い出す。彼女は、折檻を回想するかのように流れる鞭の音に合わせて、またも苦渋に満ちた表情をして首を左右に振り、わずかに声を漏らす。カメラはマヤの顔面をほぼ真下からのローアングルで捉える。このことから、マヤにとって愛する者のために罰を受けることは、エクスタシーに達することに等しいことが再見される。
 この後、マヤは伊吹を部屋の外へ運び出し、身体にかみついて彼を起こす。伊吹は抵抗するが、マヤが「あたしをあんたのものにして!」と叫んだ刹那、マヤのスリップを両手で破いてしまう。この伊吹の行為によって、マヤは伊吹の前にありのままの姿を晒すこととなったのである。パンパン達は、普段から性行為に及ぶ時でも全裸になることはなかった。つまり、客の前では常に過剰に装い、パンパンとしての自分を見せることを止めなかったのである。裏を返せば、パンパンが異性の前で裸になるときは、愛する者と身体を重ねるときであり、すなわち掟を破ることでもある。マヤは愛する伊吹を前にして、掟を破ることへの覚悟を決めたのである。
 他方、全裸になったマヤを見た伊吹がカメラに映し出されると、銃声が鳴り響き、戦時中の映像が挿入される。このごく短いカットが終わると、伊吹はマヤに飛びつく。伊吹がマヤと身体を重ねる直前に戦争のカットが挟まれるのは、彼が実際に戦場という修羅場を潜り抜けてきたことを回想したためであろう。銃声は、彼の背中に彼の強さの象徴である跡を付けた銃そのものを思い起こさせる。伊吹がマヤに抱きつく前に、彼の復員前の記憶が脳裏によぎるのは、彼がマヤの掟を破ってまで自分を求めるという大胆な行為にマヤの強さを見出し、彼自身の強さでマヤに向き合ったからではないだろうか。 
 カメラは愛し合うマヤと伊吹をクロースアップで捉え、画面の中には二人の肉体だけが収まっている。二人の体は汗によって艶めきを帯びて強調され、その肉体をお互いの手がまさぐりあう。過剰に鮮やかかつ女性性を強調したようなファッションから解放されたマヤと、男性的かつ強靭な肉体を持つ伊吹という二人の強さは、肉体を通して遂に交錯し、溶け合ったのだ。
 全てが終わった後、当然マヤは折檻を受けることになる[9]。縄で縛られ、宙に吊るされたマヤは何も身につけておらず、他のパンパン達からぶたれるのを待つのみである。部屋全体はマヤを象徴する色であった緑色のもやが包まれている。マヤは、一糸まとわずとも自分を主張することを可能にした。彼女には、すでにかつてもんぺを着ていた頃のような弱さも、派手な衣装を着て周囲の視線をさらっていた頃のような虚勢も見当たらない。なぜなら、彼女は愛を知ったからである。愛することを知ったマヤは何度も鞭に打たれながらも、パンパン達をにらみつけ、時に笑顔さえも見せる。マヤは伊吹を愛し抜くことで、ありのままの自分を強さとして見出すことができたのだ。

 

おわりに

 本論の問いは、主人公であるマヤの見つけた強さとは何であったのかということであった。その問いに答えるために、登場人物のファッションに着目して分析を展開した。結論を導くために、ひとまずこれまでの検討を振り返りたい。
 マヤはパンパンのグループに加入してからは、女性的な体つきを強調した形の服を着て多くの異性の視線をさらっていた。マヤの着る衣装は原色一色で統一されており、鮮やかな色彩は遠目にも際立っていた。過剰な女性性や色彩を備えた衣装は、元来男性に見られるという受動的な存在であった女性に、見られる前に見せるという積極性を付与する。それゆえ、マヤは強さを手に入れた。しかしその強さは、女性は男性から見られる存在であるという前提の上に成り立っているため、仮初めの虚勢であるにすぎない。他方、パンパン達が憧れる復員兵の伊吹は、その肉体に筋肉や弾痕を携えており、ランニングシャツ一枚という簡素な服装である。彼の肉体が持つ生得的な男性の力強さや戦地での経験の証は、彼を屈強で勇敢な存在へと位置付けている。彼が脱衣した状態で最もその本質的な強さを強調できることに対して、パンパン達は装うことにおいてのみ強さを可能とするため、彼女たちの強さは非本質的である。したがって、彼女たちは伊吹の強さに憧れるのである。
 では、女であるマヤが強くあるためにはどうすべきなのか。仮装による誇大性を捨て、愛する者のためにありのままの姿になることである。パンパンであるマヤにとって、愛することはグループ内の掟を破ることとなる。禁忌を犯し、罰を受けるという自己犠牲への覚悟こそがマヤを強者たらしめるのである。愛のために裸体を差し出すということは、肉体性という点で伊吹の男性的な強さとも通底する。
 したがって、マヤの獲得した強さとは、愛することである。グループ内の掟を破る覚悟を決めた彼女は、孤児であった頃の貧しさや脆弱性、パンパンであった頃の表層的な仮初めの強さから脱却することを可能にしたのだ。制裁を厭わず、愛の形象として自らの肉体を他者に差し出すことができたとき、彼女は初めて本質的な強さを手に入れたのである。
 以上のように、マヤが見出した強さについて、ファッションを手掛かりとして結論を出した。しかし、本論ではファッションと色彩の関係について、濃密な議論を展開することが十分でなかったように思われる。鈴木清順の作品において、色彩は作品を構成する重要な要素である。この点をもってさらなる研究への課題としたい。

 

参考文献

鈴木清順監督/棚田吾郎脚本『肉体の門』、日活、1964年。
上島春彦『鈴木清順論:影なき声、声なき影』、作品社、2020年。
森英恵『ファッション―蝶は国境をこえる―』、岩波新書、1993年。
『ユリイカ―特集*鈴木清順』、第23巻第4号(1991)、青土社。
『ユリイカ―特集*追悼・鈴木清順』、第49巻第8号(2017)、青土社。


[1] 鈴木清順監督/棚田吾郎脚本『肉体の門』、日活、1964年、0:04:48-0:05:47。
[2] 鈴木清順監督/棚田吾郎脚本『肉体の門』、0:11:01-0:11:15。
[3] 鈴木清順監督/棚田吾郎脚本『肉体の門』、0:11:16-0:11:51。
[4] 鈴木清順監督/棚田吾郎脚本『肉体の門』、日活、1964年、0:19:31-0:19:48。
[5] 鈴木清順監督/棚田吾郎脚本『肉体の門』、日活、1964年、0:25:03-0:26:40。
[6] 鈴木清順監督/棚田吾郎脚本『肉体の門』、0:27:25-0:31:23。
[7] 鈴木清順監督/棚田吾郎脚本『肉体の門』、日活、1964年、0:39:47-0:42:37。
[8] 鈴木清順監督/棚田吾郎脚本『肉体の門』、日活、1964年、1:13:35-1:18:28。
[9] 鈴木清順監督/棚田吾郎脚本『肉体の門』、日活、1964年、1:23:39-1:25:18。

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