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「影響される」じゃねえ「共鳴できる」だ。

昔から恥じていることがあります。
それは「影響されやすい」ということ。

HEROを観ては例のダウンジャケットに似たダウンを購入し、B’zにハマっては革パンを探し(高過ぎて断念)、へうげものにハマれば千利休の本を読み漁り、映画「鍵泥棒のメソッド」では香川照之のノートの取り方がカッコよくて10冊ぐらい大学ノートの冒頭4ページだけ使って捨てました。まさに「影響されやすい男」です。

そんな自分を昔から恥じていました。
なんて自分がない奴なんだ、と。

そして今日も辻仁成さんの小説「東京デシベル」を読んでいて、主人公がお寺の鐘を撞く音に感激するシーンを読み、不覚にも「俺の感性が呼んでいる、寺の鐘が聴きたい…」と思ってしまいました。ちなみに検索窓に「神奈川 寺 鐘」と打って思いとどまりました。

しかし、ふと思ったのです。
影響されない人生はどんなものなのか?と。

それはとてもつまらないものです。
何にも興味を示さず、全ての景色がモノクロで色褪せ、くたびれたものに写ってしまう人生。

それに比べれば、私の人生はとても賑やかです。
打てば響く、心が揺さぶられる、そう、荘厳な寺の鐘のように。

「影響される」とはとても消極的な言葉です。
被害者というか、客体的というか、悪い意味になっています。

しかし、影響されないことが「かわいそうなこと」であり、影響されることが「素晴らしいこと」という風に捉えれば、もっと適切な言葉があるように思えてきます。それが「共鳴する」です。

私は色々な人に撞かれることで、その人の持つ「鼓動(ビート)」に共鳴することができ、それが私の音色となって空気を振動させ、広がっていくのです。

つまり、私は一切「影響されていない」んです。
主体的に「共鳴している」だけなんです。

嗚呼、俺は鳴るなり法隆寺。

サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。