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メンタルヘルスと2023年のポップカルチャー③デバイス化していく心について

一端の若手精神科医が2023年を生きる中で感じたことを2023年に摂取したポップカルチャーの話を通し書き残していく文章のシリーズの完結編です。

ポケモンスリープがリリースされた時、これはとてもユニークなゲームだと思った。眠りを測定し、その深度によって出てくるポケモンが違う。だから今日は寝つきが悪いと思ったとしても、「まぁいつもと違うポケモンに出会えるからいいかぁ」と解釈すれば結果的に健やかな睡眠に繋がるのではないかと考えたのだ。生活リズムにフィットする革新的なゲームだと思った。

しかし結果的に日中はばたばたとカビゴンに食べ物を与え、どの料理ができるかと考え、奔走している。眠る楽しみのアプリだったのに、結果的にめちゃくちゃ"ゲーム"をしまくっている。ちゃんと面白くて、小さな達成感があるからこそ離れがたい。これがつまらなかったら切り離せるのだが。

何となく繰り返してしまう嗜癖の先に、それをやってないとどうにかなってしまいそうになる依存があり、その先には入力されたらこう出力されるという心のプログラム化がある。種々の依存症と同じようなメカニズムに繋がる小さなきっかけはこのような情報空間にいくつも転がっているように思う。

こうしてポケモンスリープを例に挙げてみたが、こういった"うんざりしつつ離れがたい"というのはもはや2023年に限らずここ数年のスマホ社会において頻繁にある。キュウソネコカミが《スマホはもはや俺の臓器》と歌って10年経った今年。すっかり心まで包み込んだ"情報"の渦を見つめてみたい。



映画座薬は流通しているのか?

4月に放送された『水曜日のダウンタウン』内で放送された「30-1グランプリ」というショートネタの賞レースでななまがりの「映画座薬」というネタがあった。座薬の形をした「がばいばあちゃん5」なる映画を、挿肛することで感動を"得る"という、実にななまがりらしい突飛さがあるネタだ。

しかし実際、今のSNS空間では手軽に作品を"得る"ことは可能である。トレンドを覗けば考察やミームが溢れ、なんとなくその作品を知ってるつもりになってしまう。ちょっと調べれば簡単にストーリー展開を知ることもできるし、何なら”泣けた~"というぐらいの感想はさっと手にすることができる。

見てもいない作品について知りたい/語りたいと思うのは、「話題を周囲と合わせたい」や「流行を察知して周囲を出し抜きたい」というようなファスト教養的な動機もあるだろうが、そうした能動的な姿勢でいようとしなくても受動喫煙のようにこれらの情報を摂取してしまえるのが現代の情報空間だ。

映画「怪物」の公開時、まだ観てもいない段階から物語内容について揶揄する声や受賞したアワードについて"ネタバレだ”と騒ぎ立てる声が目立ったことが印象深い。もはや、作品よりも"情報"が先行し、"情報"のみで何かを語るような状況が常態化しつつある。常識的に考えれば、観てもない作品について語るなど言語道断のはずだが、もしかすると知らず知らずのうちに映画座薬が流通していたのかもしれない。笑えないディストピアはすぐそこだ。


怒りと自他境界

現代の情報空間から感想や考察やらを摂取するのはさほど心身に影響を及ぼさないかもしれないが、たとえば負の感情を過剰に受けるリスクも高い。あえて説明する必要もないほど、トレンド欄をタッチすればそこにはとてつもない数の罵詈雑言が溢れている。対象となる他者/事象/物体のことが何となくただ気に食わないから叩いてやる、炎上してるから一緒に燃やしてやるといった種類の怒りは正当な理由も何もなく発展も何もないものであり、ただ強い感情だけがそこにある。その言葉は自分とは全く無関係のものだとしても、ずっと観ていると強いストレスとして心の中に蓄積されていくものだ。


前回の記事とも近接した話だが、例えば"推し"が批判(作品やパフォーマンスの評価などでも)に晒された時、まるで自分が攻撃されているかのごとく怒る人々の姿をよく見かける。"推し"はあくまで他者のはずだが、まるで自分のことように捉えてしまう。自他境界が失われるほどに対象との距離感を近く感じてしまうようになるのも、例えば推しの応援が推しの価値へと直結するようなシステムであったり、直接やり取りができるSNSの発達が影響していると考えられる。"推し"が自分の意に沿わない言動をすると瞬間的にアンチに回るような人の心理も、こうした自他境界の崩壊が影響しているだろう。


この自他境界は読んで字のごとく「自分以外の他者/事象/物体は、自分とは別ものである」という精神医学的な認識のことである。そしてこの自他境界の崩壊が情報空間での怒りが蔓延する要因のように思う。自分と異なる意見を許さなかったり、自分より得していそうな存在が許せなかったり、自分の好みと違うものが評価されているのが許せなかったり。自分は自分でしかないのに、自分以外のものに振り回されて不毛な怒りは溢れていく。他者と自分を見比べ、連続的に知ることができてしまうタイムラインやトレンド欄は、他者を自分の近くに置く怒りのシステムとしてあまりにも最適なのだ。


思い返すと6月に公開されたサスペンス映画『Pearl』は1918年を舞台にした映画ながら情報空間で生み出される怒りを再現したかのような作品だった。主人公パールはうまくいかない境遇の中でスターになることを夢見る。しかし現実を突きつけられる度に自分の問題はさておき周囲の人間や憧れの対象すらもこき下ろし(自他境界の崩壊!)、殺戮を行っていく。現実感のないまま自分の都合で反射的に対象を排除していくパールのシリアルキラー的精神は、画面の向こうに血の通った人間がいることを想像できない現代的な"怒り"と繋がっている。シリアルキャンセラーはあちこちにいるのだと思う。



スイッチを押す、感情が動く

自分にとって理解できないことや強く感情を侵すストレスフルな物事を「理解できない」と受け流したり、距離を置くことは間違いなく精神的な健康に繋がるはずだが、SNSでそのような事象と向き合う場合にスマホというデバイスがあまりに脳や精神と直結しすぎているという問題がある。スマホを開くという行為が日常化し、記憶したいことや考えたいことまでもがスマホに外部委託されているような状態だ。そんな時代においてスマホと心理的に距離を置くには無理があり、情報空間の中で精神を曝すことは避けられない。

2023年のTwitter(現X)で問題なのは、収益化が実装されたことだろう。上述してきた感想/考察であったり、怒りであったり、そこに放たれる全てが”いかに他者を反応させるか”という点が重視されるようになった。瞬間的に反応せざるを得ない特性を持つ言葉や写真が流れ続け、不毛だったはずの情報空間に利益が生まれる。入力と出力の高速化は情報に対して即座に反応するように我々をコントロールする。まるでスイッチを押すことでその感情が引き出され、知らぬ間にどこかで利益が生まれるというシステムが完成したのだ。

それはまるでAIロボットのようだ。『ザ・クリエイター』でも『PLUTO』でも、強いショックが与えられたり、記憶が保存されたメモリのやり取りをしたりするシーンで"感情らしきもの"が発露するシーンが印象的だったが、それはまさにこういう信号を与えられたらこう反応するというプログラミングである。情報空間に依存する現代人はAIロボットように、何かを"思わされている"、あるいは"怒らされている""悲しまされている"状態へと設計し直されててしまったのかもしれない。少しゾッとするが時にそんなことを考える。

うんざりしつつ離れがたい、と思ってるうちにスマホは臓器どころか脳の中心的機能を占めるようになってしまった。記事タイトルにデバイス化していく心、と書いたがこの行く末にあるのは精神そのものがスマホと一体化していく境地だろう。こんな気持ちになりたい時はこんなものを観たり聴いたりすればいいよ、という情報。めいっぱい腹を立てたい時は今こういう奴が炎上しているよ、という情報。情報によってまんまとそんな気持ちになれる仕組みは既にレコメンド機能やトレンド機能に実装されている。心と情報の一体化が進む恐ろしさにどう立ち向かえばいいのか。自然とこの状況が作られた以上、もはや立ち向かいたいと思っている人も少ないかもしれないが。


私は騙せない

わからないの?
初めから常識や正義では心は奪えないのよ

羊文学「FOOL」より

羊文学は12/8にリリース新しいアルバムの最後でギターを掻き鳴らしながらこう歌っている。不安定な世界で自身の心を守ろうと感覚を研ぎ澄ませるようなアルバム全体が伝えているのは、その人間らしい割り切れなさである。およそ綺麗と言えない歪んだ音も美しいと感じられるし、気分を沈めるようなダウナーな曲調がなぜか心を柔らげてくれる。人の心とは本来そういう不可思議なスイッチに溢れているものだ。依存やプログラムとしてではなく、自らの意志でもう1度、何かと出会い、触れ、聴き、観て、味わうような。誰かのために回転させた頭ではなく五感で心の存在を確かめるような。そんな泥臭い人間味を取り戻す必要がある。少なくとも私はそう思っている。


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