2019/8/22(木)、親友が心臓病で息を引き取った。
同年8/27(火)、亡骸は炎の中に消えた。

まだ23歳だった。
空気が読めず、時間を守れず、独り言が多く、良く笑う男だった。
彼はオタクであり、創作物の中でも特に炎属性が好きだった。
そして彼は、ゲイフォビアであった。

3年前に私のセクシャリティをカミングアウトして以来、彼との交友関係は崩壊しかかっていた。
元々、彼はネットやTVで散見される男性同性愛者を揶揄したネタを好んでおり、良く口にしていたが、私はそれを耳にするのが極めて不快だった。
幾度となく止めるように頼んだが、彼は耳を傾けようとはしなかった。
私の憤怒は彼の耳を素通りしていた。
そこには明らかに世界観の相違が有った。
彼の世界では私は非日常のキャラクターだったのだ。

彼の死から3ヶ月近く経つ。
そんな今、思う。
確かに彼はゲイフォビアだった。
だが彼は"悪い人"だったか?
私は否だと思う。

では、"良い人"とは?

それは生を尊ぶ人。
それは法律を守る人。
それは恩を返す人。
それは能力の優れた人。
それは我慢強い人。
それは正直な人。
それは偉業を成し遂げた人。
それは謙虚な心を持つ人。
それは自尊心を持つ人。
それは自分にとって都合の良い人。

そこには十人十色の答えが存在するに違いない。
逆に言えば"悪い人"にさえ明確な定義は存在しないという事だ。
仮にこの世が世紀末のような無法地帯ならば、略奪や殺人さえ肯定されるに違いない。
仮にこの世に食料が人間しか存在しなければ、食人嗜好さえ肯定されるに違いない。「亜(2番目)」の「心」は1番目が居ないと存在出来ない。
善悪とは水物なのだ。
彼は差別主義者だったかもしれない。
しかし、イコール彼が悪人であるという事にはならないのだ。

何かを忌み嫌い、"それ"を恐れる。

それは血液。
それは虫。
それは男。
それは女。
それは人。
それは社会。
それは炎。
それは高所。
それは閉所。
それはLGBT。

恐怖は生理現象である。
彼はゲイである私を恐れ、揶揄し、忌み嫌ったが、それは火を触ると本能的に退く事と同じ道理である。
彼はただ怯え惑っていただけに過ぎないのだ。
そこに善悪を問う事自体がナンセンスなのである。

全ての誰かは全ての誰かにとっての恐怖であるという事実は常に意識しておかねばならない。
同時に、恐怖の象徴であった火を克服する事で文明が発達して来た事実を忘れてはならない。
今日では火は文明の象徴として知られている。
勇気を持って恐怖を乗り越えた先に発展は存在するのだ。