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【短編小説】柘榴とわたしの愚かな心

「柘榴とざくろ」の続きです。

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 — わたしはあなたになりたいのだ —

そんな衝動ともいえる自分の感情が恐ろしくなって、わたしは家に閉じこもった。彼の心配そうな、そして少しだけ驚いた顔が目に浮かぶ。また「喫茶柘榴」へ向かうのが怖くなってしまった。そんな何日間かを過ごしたあと「M」の店長から「急だけれど今夜手伝いに来てくれないか」と連絡があった。ベッドに腰掛けてスマホの画面を数秒見つめてから、ベッドサイドの柘榴の絵に話しかけてみる。
「そろそろ外に出た方がいいよね?」
優しい色合いの柘榴の絵は「そうだね」とそっと頷いてくれているようだ。わたしは店長に承諾の返事をすると支度を始めた。いつの間にか日が暮れ、部屋が真っ暗になっていたことにも気づいていなかった。

店は少しだけ混んでいた。手伝ってと言うくらいだから予約が複数入ったのだろう。店長に挨拶してエプロンをすると洗い場へ向かった。ちょうどいい音量で流れるジャズ、男女の囁き声、わたしが洗うグラスの音、氷を砕く音。わたしはそれらを聞きながら、この場所が好きだなと思った。
そんなことを思いながら黙々とグラスやお皿を洗っていると、不意に彼の声が聞こえてきた。目をあげると、珍しくスーツ姿の彼が見知らぬ女性と一緒に入ってきたところだった。さりげなく女性をエスコートしてカウンター席に座らせている。心臓がチクッと痛んだ。再び視線を洗い物のグラスに落とす。彼の声を聞き分けようとしちゃいけない。他の人の声や音楽や水の流れる音を聞かなくちゃ。なのにどうしてだろう、彼の声ばかりが耳に届く。
「今日は白ワインにしようかな」
いつもと違うお酒を頼んでいる声が聞こえる。視界の片隅に彼がこちらを見ているようなそんな視線を感じる。けれど、話しかけては来ない。一緒にいた女性が彼に話しかけて、彼は「ん?何?」と返事をするとわたしから目を離す。仕事の忙しい日で良かった。わたしは洗い物の他に空いたテーブルの片付けも行い、黙々と働いた。

「お姉さん、これ下げてくれる?」
彼の隣の席の男性からそう呼ばれ、わたしは「はい」と返事をすると、彼と男性の間から空いた皿を下げようとした。その時、少し酔った男性がわたしの方に傾き、それを避けようとして、彼の背中にわたしの背中がぶつかってしまった。
「失礼いたしました」
男性と彼の両方に謝り素早く皿を下げる。彼は振り向くと「大丈夫?」とわたしの目を覗き込むように見て聞いた。
「大丈夫です」
そう言って洗い場へ戻ったが、お皿を持つ手が震えていた。

彼に手を握られた時も、涙を拭われた時も感じなかった彼の魂の暖かさを、ほんの一瞬触れたその背中に感じてしまったからだ。
なんてあったかい魂の人なんだ、と。誰にでも優しいような、掴み所がないような、女性の知り合いも沢山いて、わたしに構ってくれるのはほんの暇つぶしなんだろうなって思っていた。
でも、背中から感じたのは、その魂がわたしの魂に近いところにずっといて、とてつもなく暖かく広いということだけ。

震える手が落ち着くと、わたしは無心に食器を洗った。水の流れる音だけが自分の鼓動と呼応して聞こえていた。
気づくとお客さんは少なくなり、彼と連れの女性の姿も見えなくなっていた。いつの間にか帰っていたらしい。

わたしはほっとため息をついて、タオルで濡れた手を拭いた。店内にトニー・ベネットとビル・エヴァンズの「My Foolish Heart」が流れ出した。
「夜は素敵な曲のようです」そんな歌い出しだ。わたしはお客さんから見えない位置まで下がると、そっと店内の様子を見た。階段を降りてくる足音が聞こえる。
わたしはドアの方をじっと見つめた。スーツのジャケットを手に持ち白いシャツ姿の彼がドアを開けて入ってくると店内を、いや洗い場の方を見ているのが見えた。
店長がわたしを手招きして呼ぶと「もう上がっていいよ」と言った。わたしを見つけた彼はほっとしたような顔をしてカウンターに座ると「一杯奢るから隣に座りなよ」と言った。
「いつものロックと、君は?」
「わたしも同じのを」

彼の魂の暖かさに触れたいま、なぜだろう、わたしには怖いものはなくなっていた。トニーベネットは歌い続ける。

「わたしの愚かな心に注意してください」

彼は乾杯と言うと、そのまままっすぐ前を向いたまま一口飲んだ。さっきまで飲んでいた白ワインのせいか、少し上気している頬と潤んだ瞳がとても綺麗だ。彼は両手を彼自身の頬に当てると「ワイン飲むとすぐ赤くなるんだよなぁ」と少し恥ずかしそうに言った。
「なんで飲んだんです?」
「なんでだろう、一緒にいた人がワイン好きだからかな」
また少しだけ胸がチクッとする。
「あ、仕事先の人ね、さっきの人は」
少しおどけるように眉毛をあげてそう言う。何もかもお見通しなんだろう、彼には。本当に、わたしの愚かな心なんて、全部お見通しだ。

「ねぇ、君は本当に優しくてあったかいね」
彼は急にわたしに顔を近づけると、小さな声でそう言った。わたしの頬が、彼の頬の温度を感じるくらい近い距離で。もし彼もわたしの背中に触れたあの瞬間、同じことを感じていたなら、わたしはとても嬉しい。
トニー・ベネットは歌う。
「それは、愛です。今回、それは愛です」

(つづく)

次のお話で「喫茶柘榴」は最終回になります。
最終回は書籍に収録予定です。発売日など決まりましたらお知らせします。
よろしくお願いします。

『喫茶柘榴』最終回についてのエッセイはこちら





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