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【短編小説】柘榴とざくろ

「柘榴と白い邸宅」の続きです。

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この秋初めてのニットをクローゼットから出して着た。
窓の外は静かな雨がずっと降り続いている。こんな日は本当なら家に篭っているのが一番いいのかもしれない。でも、アパートの二階の窓から小学生の色とりどりの傘が往来する様子を眺めていたら「喫茶柘榴」に出掛けたくなってきた。
わたしはバッグに文庫本と財布とハンカチだけを入れるとアパートを出た。出かける前にベッドサイドに飾られた柘榴の絵に目をやり(行ってきます)と心の中で言う。
この行動がわたしの出かける前の定番になりつつある。でも、彼はなぜこの絵をわたしにくれたのだろう。どちらかというと「喫茶柘榴」にこそ似合う絵なのに。

「喫茶柘榴」の飴色のドアを開ける。カウベルが小さく鳴り、いつもの音にわたしはほっとする。自然と目がカウンター席へ向くが、彼は来ていないようだ。今日は他のお客さんも居ない。
わたしはマスターにこんにちはと会釈しながら言うと、いつも座っているテーブル席へ向かった。マスターが彼の席を指差して「ここに座ったら?」と言った。
わたしは素直に頷くと、いつも彼の座っている椅子に腰掛けた。何回か座ってはいるけれど、いつも彼の気配を無意識に感じてそわそわしてしまう。わたしはブレンドを注文するとバッグから本を出して読み始めた。
マスターがそっとコーヒーをわたしの前に置いた。わたしは本から目をあげると「ありがとうございます」と言って一口飲んだ。

「雨、止みませんね」
カップを拭きながら窓の外を見ているマスターに声をかける。
「今日は止まないんじゃないかなぁ、雨の日はお客さんもあんまり来ないからちょうどいいけどね」
「ちょうどいいんですか」
コーヒーを啜りながらわたしが聞く。
「そう、がんばらなくていいから。手を抜きたい時もあるからね」
マスターはニコッと笑うとそう言った。
「手抜きの……」わたしが自分のコーヒーを見ながら言うと
「そこは手は抜いてないよ、安心して」胸を張るような仕草でそう言うので、思わず笑ってしまう。

カウベルが鳴り、彼が傘を畳みながら入って来た。楽しそうに笑っているわたしとマスターを見て「お」と言う口の形でこっちを見ている。傘立てに傘を入れ、少し濡れた前髪を気にするような仕草をした後「なんか二人楽しそうじゃん」と言ってわたしの右隣に座った。
今日は綺麗なチャコールグレイの丸首のニットを着て、少しだけ腕まくりをしている。雨に濡れた手をおしぼりで拭きながら「マスター、ブレンドちょうだい」と言った。

彼の前へコーヒーを置いた後マスターが言った。
「そういえば、裏庭の柘榴を収穫したよ」
そしてわたしと彼の間に枝付きの柘榴をそっと置いた。わたしは神が作ったその形状の美しさに思わず見惚れて言葉を失った。彼が「ちゃんと実ったんだね」と言って、実を手に取った。「食べてみる?」そうわたしに聞きながら、彼は手に持った柘榴をマスターに返した。
「そういえば、このお店の名前はなんで「柘榴」なんですか?」
ふとそんなことが気になってわたしはマスターに聞いた。
「あれ?話したことなかったっけ?」
マスターは果物ナイフで手際良く柘榴に切れ目を入れ四等分にすると、お皿に入れてまたわたしと彼の間に戻した。
「川端康成の『ざくろ』っていう小説からだよ。こう見えて僕は文学少年だったんだ」

マスターは嬉しそうにそう言ってから、洗い物をしにわたしたちの前から離れた。彼は、俺は聞き飽きてますという興味のなさそうな顔をして柘榴を手に取ると、そのまま上の方を齧った。彼の少しふっくらとした唇が柘榴のルビー色の赤に触れる。通った鼻筋、少し伏せた睫毛、唇に触れる赤、その残酷なまでの美しさに、わたしは呼吸するのを一瞬忘れた。
「う、ちょっと酸っぱい」
彼は何粒か齧ってから、わたしに向かって酸っぱそうな顔をするとお皿に柘榴を戻した。そしてコーヒーを啜ると、
「あれ?口の中がもっとパニックだ」
そう言って笑い、タバコを持って裏庭に出て行ってしまった。

わたしは彼の食べかけの柘榴を手に取ると、そっと齧ってみた。酸味と謎の背徳感で、すぐにお皿に戻す。マスターが優しい顔で「酸味が染みるでしょう?」と聞いてきた。わたしは酸っぱい顔のまま無言で頷いた。はい、染みます。酸味も染みるけど、わたしはこんなに彼のことを好きだったのかと、それが染みます。わたしはどうしたらいいんだろう。ふと、いつか夏の裏庭で彼が言った言葉を思い出した。

「ん?これ?柘榴だよ?花言葉は【円熟した美しさ、大人の関係】とも言うらしい」

なぜか急に涙がこみ上げてきた。裏庭からの扉をくぐって彼が戻ってくる。その姿を見た瞬間、思わず涙がこぼれてしまった。彼は椅子に座るとくるりと椅子を回転させて、どうした、大丈夫?と言い、左手でわたしの涙を拭った。ほのかにタバコの香りがした。
「ちょっと酸味が染みちゃって」
わたしはそう言い彼の手をそっと退けると、バッグからハンカチを取り出して涙を拭いた。「そろそろ帰りますね!」ハンカチをバッグにしまって立ち上がりコーヒー代を払うと、少し心配そうな顔をしている彼を残したまま店を出た。

冷たい雨の中、足早に歩く。歩きながら柘榴とそこに口づけしたかのような彼の横顔の美しさを思い出す。傘を持つ手に冷たい雨が当たる。そして気がついた。

あぁ、わたしは、あなたになりたいのだ、と。美しいあなたになりたいのだ、と。

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