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横尾忠則『言葉を離れる』感想。三島由紀夫との関係や海外での創作活動の心得

「本なのに『言葉を離れる』とはいかに・・・?」

その疑問が、本書を読もうと思ったきっかけ。

「横尾忠則現代美術館での作品を、より深く理解したい」

そんな気持ちのもと始めた、”横尾氏の本9冊読む”。
3冊目の今回は『言葉を離れる』である。

本書を読んで私が驚いたり、強い印象を受けた

  • 肉体的・観念的という考えかた

  • 三島由紀夫との関係

  • 海外での創作活動

  • 創作とインスピレーションについて

この4点において、感想をまとめた。
横尾氏や横尾作品、芸術への理解の解像度を上げるには、不可欠なテーマだと思う。

  • 先のことや理屈ばかり考えこんで深刻になりがち

  • 直観や不思議なめぐりあわせに興味がある

  • 華やかな芸術家同士の交流を覗きたい

  • 海外進出して何かしらの活動がしたい

こんな人にも楽しかったり、役立つ内容だと思う。

1冊目と2冊目の感想はこちら↓

本の概要

横尾氏の幼少期〜現在までのことが、読書遍歴(というか、横尾氏は読書とは縁薄いかんじ。「本との関係」と言うべきか)とともに語られるという内容。

高校を卒業したら、郵便局に勤めるつもりだった青年が、偶然の出会いや多くの出来事に導かれて芸術家になる。言葉や文字などの観念的なものよりも、肉体的、感覚的なものから受ける刺激を信じ続けてきた画家が無心に「言葉を離れる」境地で、想定外の半生を交えて伝える「魂の声」。講談社エッセイ賞受賞作。

本書裏表紙より

芸術家になるまでの半生や現在まで、一貫して観念的(言葉で理解したり意味付けたりする)な部分がとても少ない。

本当に色々な人との交流を通して「今何をするか、感じるか」を重視する生き方(肉体的・感覚的)によって道がひらかれてきたのでは、と思える内容だった。

そうでなければ、こんなに数奇なめぐりあわせにはならなかったのではと。

感想と考察


「今を生きる」肉体的・観念的という考えかた

本書で一番重要なのは

  • 「肉体的・観念的」という相対するふたつの考えかたの違い

  • 横尾氏自身は「肉体的」な生き方をしてきた

このふたつのことだと思う。

「肉体的」とはどんな意味かがよくわかる部分はこちら。

アメリカの知識人はぼくにしばしば禅の思想をふっかけてくるのですが、ぼくは禅に関してチンプンカンプン無知です。彼らは必ずしも善の実践者ではなく、観念的に禅に興味を持っていました。彼等と対等に禅を話題にできない自分が日本人でありながら、恥ずかしいやら情けないやらくやしいやらでひとつ禅を実践してみようという気になったのです。

本文より

ところが、禅寺で老僧よりこう言われた横尾氏。

「あれこれ考えなさるから、分別臭くなるのです。「只管打坐」、黙って座ってみて下さい」
 これは本を読んで解るものではないと思いました。大変な世界に足を踏み入れたと思いましたが…(中略)
あの頃は何も解らなかったけれど、解る必要もなかったと思います。頭から考えるということが消えていき、ただただ足が痛い、寒い、腹がへった、眠い、という肉体の悲鳴と対峙する毎日です。

本文より

参禅した当初はわからなかったけれど、後に「"私"を捨て、事実を事実として見ること」が創造の究極と言えるかも…と思ったとのこと。

全て自問自答の中から学んでいくしかない、とも書いています。

難しい…この観念の理解自体が禅のようだ…

頭で考えたり、言葉で説明する「観念的」な活動ではなく、今誰と何をどのように体験するか。そして分別をつけず、事実と事実として受け入れていく…このような生きかたを「肉体的」と定義しているのかなと思った。

そして、肉体的な生きかたをしてきたから、読書とは縁薄い人生だった…と繰り返し書いている。

本書の後半では、絵と文学についても語っている。

言葉は肉体から発したものですが絵画ほどには肉体的ではありません。絵画は言葉ではありません。絵画は肉体です。文学は論理的で観念的です。いくらでもウソをつきます。絵はウソをつけないのです。もしウソをついて絵を描いたとしても、「ウソをついた絵」としてすぐにバレてしまいます。肉体がウソをつけないように絵は絶対ウソをつけない、故に絵は恐ろしいものです。

本文より

三島由紀夫は横尾氏の〇〇〇だった

横尾忠則現代美術館で見た、三島氏の絵はこちら。

この絵を見たときには、横尾氏と三島氏がどういう関わりをしたのかは知らんかったんだけれども。

2点とも、かなり印象深かった。

何を受け取ったとかいうより「こりゃ、ただの”ちょっと交流ありました”的な関係じゃないな」と素人なりに思った。

今やっている「横尾氏の本9冊読む」の1冊目『私と直観と宇宙人』の感想文には、横尾作品への感想としてこう書いた。

横尾氏の作品を美術館で観たとき「このうさんくささ、どこかで見たことある…」と思った。
(中略)
「あやし興味ぶかい」って言い換えたらいいのかな〜
不思議に懐かしいような親しみを覚えるような…

『私と直観と宇宙人』感想【"横尾忠則氏の本9冊読む"の1冊め】より

『言葉を離れる』の中では、三島氏が横尾氏について書いた『ポップコーンの心霊術 横尾忠則論』が紹介されている。

そこで、横尾作品について次のように表現されていた。

横尾氏のやつたことは(中略)人の一番心の奥底から奥底への陰湿な通路を通つた、交霊術的交流なのだつた。彼は、日本の土俗の霊を以て、アメリカに代表される巨大な機械文明の現代に、或るフワフワした、桃いろの、ポップ・コーンのやうでもあり、ゴム風船のやうでもあり、いづれにしても、パンと割られたらおしまひの、合成樹脂製の人魂を喚起したのであつた。

本文より

そうだ!
「土俗」というのが私の感じた懐かしさだったのかな、と思った。

「交霊」と書かれているが、そもそも拝み屋とかユタみたいな存在も土着的な存在だし。

でも、それだけではないのがポイント。

「この時代にも今の時代にもどこか新しく感じられるもの」…何か言葉にしづらかったものが「ピンクのポップコーン」のくだりで鮮やかに言語化されていて。

もはや、アホみたいに「ほえー」と衝撃を受けるしかなかった。

三島氏もまた交霊術的…
横尾氏の深い深い、くらい底のほうまで見ていたんだな、と感じた。

また、横尾氏は三島氏についてこう書いている。

ある意味で三島さんはぼくの教育係であったように思います。その教育とはまず「礼節」を重んじることでした。(中略)
三島さんは芸術は本来無礼なものだ、だからと言って芸術家は無礼であっちゃいけないと言っていました。芸術が縦糸とすると礼節は横糸でこの両者の交差したところから霊性が生まれるのだと。だから「礼性は霊性なり」とも言いました。それほど礼性は芸術にとって重要であると。

本文より

霊性を重視していただけではなく、UFO観測など神秘主義的な活動にも参加していたという三島氏。

一方、30代以降の三島氏といえばボディービルにハマり、ムキムキ。
肉体を重視していたのだ。

「肉体派なのに霊性(精神的なこと)に関心が高かったとは…はて?矛盾では?」と思いきや…違った。

むしろ精神が先行することを恐れていたのか、常に肉体を思想の中心にすえていました。霊性と矛盾するように見えますが、この物質界に人間が存在する以上は物質としての肉体をおろそかにできないからでしょう。

本文より

何だかわかりみが深い。

私自身、一時期は精神世界に意識が傾きすぎていた。
地に足がついていないかんじが顕著で、実際、機能的にも足腰が弱く不健康だった。

地に足がつかなくなりがちで夢見がちなのは、生来持ち合わせた性質のようで、今も変わってない。

でも徐々に、肉体に意識を寄せ、できるところから鍛えたり生活を変えるうちにバランスが取れてきたことを思い出した。

海外での創作活動とビジネスにおける心得

本文では、グラフィックデザイナーから画家に転向して約4年後、ヨーロッパで仕事をした話もつづられている。

ベルギー国立二十世紀バレエ団がミラノのスカラ座で公演するバレエの舞台美術です。このバレエ団の主宰者は元ダンサーで振付師、演出家のモーリス・ベジャールです。演目は「ディオニソス」。

本文より

他に、舞台衣装はジャンニ・ヴェルサーチ…と世界的な芸術家やデザイナーに囲まれ、画家から転向して間もない横尾氏はちょっと気押されぎみ…と思いきや、何とみんな横尾氏のファンだったとのこと。すげえ。

ここで「海外で仕事をするときの心得」というべき内容が書かれていて、これがまたまた参考になったのでシェア。

ひとつめは、「堂々と振る舞わないと軽く見られる」こと。

逆に、言うべき意見を遠慮せず話すとあちらの態度も変わるという。

ふたつめは、ヨーロッパ人的なエゴと日本人の違い。

文中で紹介されたいた、演出家べジャール氏の態度がすごかった。

通常、というか日本的な常識からすると…

舞台美術を依頼するまでに「舞台の骨組み部分(演出家の仕事である部分)」が出来上がっているのがふつうだろう。

しかし、横尾氏に依頼してスイスまで来させた時点で、べジャール氏の中ではまだ舞台構想についてノープラン。「なんでもいいから自由に描け」と指示し、「自分がインスピレーションを得るための道具」として横尾氏の作品を利用したというのだ。

むちゃがめつい!
おちおちしてたら才能と労力を浪費させられる…

ベジャールは常に何かに触発されながら自分の中に内在するイメージを発見する方法を取るタイプですが、彼のイメージを触発させる側のぼくにとっては、非常に面倒な作業です。
(中略)
相手の才能を活かすと同時に自分の才能に同化させてしまう、ずるいといえばずるい方法ですが、才能のある人間はそういう意味でパクリの名人です。
(中略)
このことを理解しなければ彼等とは決して仕事がやっていけません。このことはヨーロッパに限らずアメリカ人も全く同じであるとぼくは経験から学びました。

本文より

結局20枚くらい描いた中で、舞台に使われたのは何とたったの1枚…ポカーン

彼の芸術に必要なものだけを採用し、あとは没にすること対してはむしろ非常でした。このヨーロッパ人的なエゴも芸術家として学ぶべき態度としてぼくには大いに学ぶところが多かったです。日本の芸術家の弱気な部分はこのような情に絡む場面で人間感情を優先することで結果平均的な妥協の産物となって美から力を奪っているように思います。

本文より

ものづくりをしている者にとっては、ズキッとくる話では。

日本人特有の遠慮とか人情というものは、海外で何かしたい場合、邪魔になることがありそう。本質を見極めないといけないのですな。

他にも海外ならではってかんじのエピソードが。

ギャラの件でも「最後までさすがやな…」と言わざるをえない狡猾さ。
文句をいったり改善してもらおうにも取りつく島がない。

海外で何かしらの活動したいと思ってる人は、この辺知っておいて損はないかもと思った(笑)

ものづくりの根幹「創作は〇〇であるべき」By.ラウシェンバーグ

最後に、気になったというよりは「ものづくりの根幹なのでは」とかなり納得した部分について。

アメリカのポップアートの巨匠で、ときに「アメリカのピカソ」と呼ばれたロバート・ラウシェンバーグ氏の話だ。

横尾氏が彼と同じ場所の隣のスタジオで仕事をしたときのこと。

当時の光景が「創作活動はカジュアルであるべき」と自分に教えようとしている気がした…と書いている。

(下の写真は、ラウシェンバーグ氏と彼の作品)

出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

彼は常にスタッフに囲まれて賑やかにワイワイ話しながら、また日本酒を飲みながら制作をしていました。彼の場合は無意識の力を引き寄せるためにも酒を切らすことはなかったように思います。大きいセルに写真を刷ったものを何枚もセラミック板の上に重ねたり組み変えたりしながら、まるで遊んでいるかのように、ニコニコして、ひとり言をいいながら、ああでもないこうでもないと、天啓が舞い降りてくるのを今か今かと待ちながら、その瞬間がやってくるのを注意深く、逃がさないように眼を光らせていました。そして「作品がシリアスになるのを俺は最も恐れる」と言いながら霊感を捕獲しようとしているのが、見ているこちらにも伝わってきて…

本文より

確かに、直観ってものは、シリアスに悩んだりウンウン考えこんだりすると働かない。軽めのトランス状態でいることが最重要(深くいきすぎてもダメ)。

気楽な状態を保ちつつの、「やってくるものは決して逃さない」というある種のピリッとした緊張感。

こうした、一流の芸術家たちの創作風景を、その空気感もろとも臨場感たっぷりに覗き見できるのも、横尾氏の著書の醍醐味。

美術館で作品を観るのとはまた違った芸術の楽しみかたをしてみたい方はぜひ。

言葉を離れた文章を読み解く面白さ

今回は、これまで読んだもの以上に感覚的な内容だった。

普段私たちが「こんな感じ」と言葉にせずに感じているかもしれないものを、あえて言葉にしてある。

それをまた「こんな感じ?」と味わい、またまた言葉で感想をつづる。
難しかった。「一体今何周目やねん?」と(笑)

文章の意味を理解するというよりは、流れを見たり、そこに乗っかって「どんぶらこ」と流されてみたり、潜ったりしてみる。

そういう本の読み方もまたよき。
次の横尾本は違う潮流がやってくる気配、お楽しみに。

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