柴田彼女
小説「命、在るものになりたくて」(全22話)をまとめたマガジンです。
自作の小説をまとめたマガジンです。
別名義で書いていた掌編・短編小説をまとめたマガジン。全26作、長くても6000文字足らず、10分程度で読める作品ばかりです。
小説「レーズンとオウムとミイラのワルツ」(全9話)をまとめたマガジンです。
私は、教師だった。 生徒に物を言い、導き、教える立場だった。 今とは違う生きかたをしていた。嘘じゃない。嘘じゃない私は、また何者かにならなければならない。 丁寧な暮らしを続けて、その先に何があるだろう。心の安寧を手に入れて、いびつなまま心がくっついて、もうクリニックにも通わなくていいですよと担当医に言われて、そのころ私は何をしているのだろう。また教師に戻っているのだろうか。それとも別の何かに変わっているのだろうか。まだ丁寧な暮らしは続けているのだろうか。続ける余裕はあ
私の診察が始まる。案の定話の切り出しは医師からで、 「他の患者さんとちょっと仲よくしすぎかなと、看護師から話を受けていますが、いかがですか? 大丈夫ですか?」 とのことだった。 「外のベンチでお弁当を食べている時に、一方的に話しかけられているだけです。返事もそれほどしませんし、連絡先なども交換する気はありません。基本的にずっと無視しています」 端的に事実だけを述べる。医師は理想通りの回答に満足したように、 「それならいいのですがね」 と言って、そのまま話題は私自身のこ
中に入ると、看護師がいつかのように私を廊下の隅に追いやる。 「前も言ったけど、他の患者さんと深く関わらないようにね」 はい、と返す。深く関わっているつもりがないので、それ以外の返事ができない。看護師は続ける。 「どうせまた、女優だったころは、とか、ストーカーが、とか言っていたんだろうけど、犬塚さん、ここが地元で、一度も他の土地に出たことなんてないのよ。ずっと引きこもって、趣味が舞台鑑賞だから、でも引きこもりで外に出られないから、映像作品になっているものだけ観ていて。全部、
犬塚さんとまた会ったのは、秋になってすぐだった。診察時間を昼手前に戻し、案の定何時間も待たされ、外のベンチで昼食を摂っていると彼女は現れた。 「あ、あの時の人だ?」 私は、お久しぶりです、と、覚えています、の二つの意味を込めて小さく頭を下げる。 「あれ以来見かけないから、転院したのかと思ってた。また会えてわたしは嬉しいよ」 犬塚さんはベンチに座り、やはりこちらを見ずにそう言った。 「今年の夏は暑かったね。焼け死ぬかと思ったよ。なんとか終わってよかった」 「そうですね」
日々は続く。二週間に一度の診察は繰り返され、本格的な夏がくる。私は予約時間を夕方にずらしてもらって、数時間の待ち時間は待合室で本を読み、スマートフォンを触り、また本を読み過ごした。薬は一度ほんの少し減り、けれどそのまま停滞したままだ。 未だスーパーマーケットとドラッグストア程度しか行けず、それも非常に疲れを伴う行為であることに変わりはない。去年も着ていた服を今年も着ている。化粧品はインターネットでまとめて注文している。本も同様に、音楽は配信サイトで聴いているから何も困るこ
スーパーマーケットの、値下げコーナーでスイートスポットまみれのバナナを買った。ほとんど真っ黒で、よく売るなあ、といっそ感心する。それと同時、捨てられる寸前で、灯の消えそうなそれを見ているとなんだか今の自分の姿と重なってきてしまう。 親の仕送りで生きている自分。丁寧な暮らし、なんて言いながら、日々無駄に時間をかけて怠惰に生きているだけの、偽物の『丁寧』を続ける自分。いけない、フラッシュバックしてしまいそうだ。 かごの中に腐りかけのバナナを入れて、そのまま無人レジに向かう。
そこから更に一時間半、やっと自分の番がやってきた。担当医は四十代ほどの男で、患者の話を長く聞いてくれる。それがこの混雑に繋がっているのだけれど、こういうジャンルの患者として思えば話を聞いてもらえる機会は非常に貴重で、だからこそ何時間でも待てる。需要と供給が合っているのだ。時間が無限だったら、この医者は何時間でも話を聞いてくれるだろう。そんな安心感がある。 私は医者に今の生活を話す。できるだけ丁寧に暮らしていること、きのうはパンを焼いたこと、ケーキ作りに興味があること。今
再び涼やかなクリニック内に戻る。順番はまだまだ先だ。鞄から本を取り出して読もうとして、そこで一人の看護師が近づいてくる。 「名城さん。ちょっといいですか?」 「はい」 看護師に誘導され、薄暗い通路の端に立たされる。 「さっき、外でお弁当召し上がってたわよね?」 「はい。駄目でしたか?」 「ううん。お弁当はいいよ。むしろお弁当食べなきゃならないくらい待たせて申し訳ないね。悪いんだけど、どうしても混雑してしまうから時間通りに診察してあげられなくて」 「いえ、余裕をもってきてい
十二時になっても当たり前のように自分の番はこなかった。私は受付の女性に一言断って、病院の外にあるベンチに向かう。いつも私はここで一人、弁当を食べる。ベンチは三つあるが、なぜか誰も使っているところを見たことがない。そもそもなぜベンチがあるのかもわからない。それでもこれがあるから私は病院のたびに外食をしなければならない羽目に陥ることを避けられているので、私にとっては感謝すべき存在だった。 ベンチに腰掛け、リュックサックとトートバッグを傍らに置き、両手を上げ、伸びをする。すし詰
朝、着替え、カーテンを開け、顔を洗い、朝食を摂り、化粧をし、髪を整え、それから弁当を作る。 きょうはメンタルクリニックへ行く日だ。メンタルクリニックは街中にあって、いつも混雑しているから平気で予約時間を何時間も過ぎる。受付に言えば外出もできるけれど、外食するほどの気力があれば何時間も待たされるメンタルクリニックになんて通うわけがない。 きょうは、昨日焼いた食パンをサンドイッチにする。バターを塗って、その上からマヨネーズを薄く塗って、フリルレタス、ハム、マヨネーズとマスタ
あしたは病院で、診察時間は十一時半から。どうせ二時間は遅れるから、お弁当を持っていかなければならない。あしたはサンドイッチにでもしようか。棚からホームベーカリーを出し、強力粉や塩、砂糖、バター、牛乳、ドライイーストなどを支度する。計りで適量を計測し、順番通りに入れる。捏ねるだけの操作をしてくれるボタンを押すと、ぎいん、ぎいん、ぎいん、とモーターが回り出す音が響いた。 しばらくして機械が止まる。蓋を開け、指先で生地を伸ばしてみて、薄く膜が張るのを確認する。再び蓋を閉めて、具
午後一時過ぎ、PCを開く。スマートフォンに入れてあるSNSをこちらでも覗く。たまに何かを言われたり、訊かれたりするが、絶対に返信はしない。一喜一憂したくないからだ。いいねもお気に入りもブックマークもフォローも短いコメントも怖くて仕方ない。フォローされてもフォローを返すことはない。それでも非公開にしないのは、ほんのわずかに残った自己顕示欲だろう。 【着替え。朝食。洗濯。掃除。買い物。昼食。おしまい。】 午前中にやり終えたことを並べただけの、短い投稿にも、誰かが読んだ形跡は残
リュックサックを定位置に片づけ、時計を見るともう十二時を過ぎていた。昼食は何にしよう、と、冷蔵庫を再び開く。ざっと中身を見て、ナポリタンならいけそうだな、と考える。必要な材料をざっとまな板近くに並べ、フライパンと鍋をシンク下収納から取り出す。鍋に水を張り、火にかける。 玉葱を薄めに、ピーマンは斜めに、細めに、にんにくは包丁の側面で潰してから荒く切って、最後にウインナーを五ミリ幅程度に斜め切りにする。フライパンにオリーブオイルを入れて、にんにくをちょうどその中に入れた。弱
家に着いたころにはもうくたくたで、玄関では突っかけていたサンダルを揃える元気もなかった。細い通路、壁に寄りかかって、イヤホンの音量を少しだけ下げる。心を整える。ちょうどいい音の大きさ、聴く曲も変える。美しい声、美しいギター、美しいベース、美しいドラム。包まれる。不安がない。かすれたボーカルの「おかえり」という歌詞。ただいま、と呟く。帰ってきた。きょうも無事帰ってこられた。 深く息を吐いて、それから吸い直す。 イヤホンを外して、リュックサックのポケットの中のケースにしまう
肌によい成分でできた日焼け止めを分厚く塗って、薄手の白いカーディガンを着て、つばの広い麦藁の帽子を被って、リュックサックの中には複数のエコバッグを入れて、サンダルをつっかける。スマートフォンとBluetoothのイヤホンを連動させて、気に入りの、賑やかしい、けれど気に入りのバンドのアルバムをセットする。大きな音で誤魔化さなければ、一人で外も出歩けない。 ふ、と短く息を吐いて気合を入れる。鍵を開けて、ゆっくりと一歩外へ出る。日差しはすでに眩しい。慌てて日傘を取る。身体をドア
洗濯物を干す。ピンチに靴下やタオルを挟み、ハンガーにトップスを裾から通す。服が伸びたり傷んだりしないよう、最新の注意を払っている。一つ一つ、綺麗に皺を伸ばす。ベランダに干す。弱く風が吹いて、Tシャツが揺れる。 壊れた、と自覚した自分を直す術を、私は暮らしに求めている。仕事と恋愛のために乱暴に扱ってきた私生活を、とにかく丁寧に、丁重に扱うこと。いわゆる、丁寧な暮らし、とやらを行うこと。市販品で済みそうな食べ物を自分で作り、地球や社会に優しい商品を選び、自分を傷つけない程度