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「本は全てオーディオブックになっていい」のだろうか

 Noteから受信箱に届いたメールに「本は全てオーディオブックになっていい」というブログが紹介されていた。確か本に関する雑誌である「タヴィンチ」の編集者が書いている。

 とにかくオーディオブックが快適で、もう本は全てオーディオブックになっていいと思っているそうだ。それに山ほどスキがついていた。

 極論だと思う。確かにオーディオブックは、体を動かしながら聞くことができるし、まとまった時間が取れなくても大丈夫だし、色々と快適でいいと思う。しかし、ここまで言うかね。

 私とて「常に本を黙読しなくてはいけない」などと言う気はない。人間は文字を持つ以前、話して聞くことによって意思の疎通を図っていた。話すことと聞くことは、コミュニケーションの土台だとは思う。

 しかし、文字の発明は人間に思考力をもたらした。脳をバランス良く使うには読書が最適だ。何しろ知識の定着度が違う・・・と、ここまで書いて気づいた。そもそも知識を得るような本ではないのか。なるほど。

 ただ、ひとことだけ言えるのは、オーディオブックに慣れると、確実に本が読めなくなるということである。だがこの流れを見ると、本を読むという行為はもはや一般的なことではなくなっていると感じる。

 そのうち、子どもの頃から練習した人にしかできない特殊技能になるかもしれない。そしてそれは、きっと中流が崩壊した社会だ。読書は印刷技術の発達によって一般化した趣味である。それはやがて階層を崩し、中流が中心になる社会を作った。

 そして今、グローバル経済と新自由主義とIT技術の発達が組み合わさることにより、中流が崩壊しつつある。そして人間は、より動物本来の姿に戻りつつある。印刷も斜陽産業になり、凸版印刷は社名を変えて「印刷の会社ではない」と言い続けている。

 読み書きは今、日常から消えようとしている。学校教育はますます困難になるだろう。でも政府は、一部がエリートになりさえすれば、あとは奴隷労働者で構わないと思っているようだ。それを後押しすることは避けたい。

 

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