見出し画像

【短編小説】ノエルのできごと

 「マリアンヌ・デュモンと申します。一年足らずの短い期間となりますが、宜しくお願いいたします」
 彼女と出会ったのは所属する大学の書道サークルの新歓コンパだった。日本文学の修士課程に国木田独歩研究のため一年間だけ在籍するという。フランスの学校制度はよく分からないが、修士課程に留学してきたということは僕より二、三才年上ということだろうか。
 第一印象はとにかく地味の一言に尽きた。長身で化粧っ気のない顔。ピアスも指輪もしていない。ぼさぼさっとまとまらない金髪。眼鏡は実用一点張りといったメタルフレーム。ただ瞳はとても綺麗なブルーだった。
 コンパ会場は空調が効きすぎていて、四月末の夜にしては暑かった。彼女は上着を脱いで、グレーの半袖ニット姿になっていた。Vネックの胸の谷間や、長い二の腕には金色の短い産毛が光っていた。白人女性、特にフランス人女性といえばみんなお洒落で、すべてにおいて手入れが行き届いた女優のような美人揃いだろうという固定観念があったため、目の前の彼女がいま一つイザベル・アジャーニやソフィー・マルソー、ロマーヌ・ボーランジェと同じ国の女性ということにピンとこなかった。
 みんな酔っぱらって座が乱れた時、それまで自分が座っていた席を他人に奪われた彼女が、僕の隣りに来た。
 「独歩がフランスで読まれてるなんて意外です」
 話しかけてみた。商学部の僕は、独歩は高校の現国で習った代表作が「武蔵野」という最低限の知識しか持ち合わせていない。
 「ミュッセの劇を観る日本人だっているでしょう」
 そう彼女が返してきたが、独歩以上に知らない名前だった。ほかにもいろいろ話したが、酔いもあって内容までは覚えていない。ただ彼女の日本語は美しかった。地方出身で上京三年目なのにまだ標準語のイントネーションが怪しい自分のよりも彼女の日本語は東京に馴染んでいた。少し古めかしく聞こえなくもなかったが、それは研究している日本人作家の文体も影響していたのだろう。そんなところも一層、彼女がフランス人らしくないように感じさせた。
 サークルでは週二回、水曜、土曜に練習会があった。キャンパスに近い神社の広間を会場に借りていた。マリアンヌは欠かさず参加して、いつも片隅で篆刻をしていた。
 「筆は持たないんですか?」
 「わたしは篆刻専門です。字を書くには紙とか墨とかお金がかかります。硯と文鎮を持ち運ぶのも重たいですし。篆刻は印刀と石だけですし、一度仕上げてから石を削り直すと再利用できます」
 少し恥ずかしそうに彼女が説明した。練習会場に現れる時、彼女の服はたいていシンプルだった。一度、彼女の着ているコットンニットの襟元に新品のタグがついていた。教えてあげると、「取って下さい」と頼まれた。
 背中に立って、うなじのところを少しめくってタグをハサミで切り取った。ジーンズメイトの処分品だった。ユニクロはまだ都心部には進出していなかったので、余裕のない学生がよくこのチェーン店で服を買っていた。ワゴンセールらしい安い服に、無造作な纏め髪、背筋を伸ばした変に良い姿勢で石を削るその姿がなんともまた地味で、神社の畳敷きの空間に不思議と馴染んでいた。
 「東京って意外と緑が多いですね。気分が落ち着きます」
 梅雨の水曜日、練習会の後にたまたま神田川沿いに高田馬場駅まで彼女と一緒になった。小道の左右には紫陽花が盛大に色づいている。
 「この道は春には満開の桜が綺麗です。トンネルみたいに花が覆い被ってきます。四月の一週目くらいが一番凄いかな」
 「四月ですか? 残念です。わたしは来年の三月には帰国しないといけません」
 「そうなんだ。残念です。本当に綺麗に咲くのに」
 「でも来年は家族で、母国開催のワールドカップを見に行きます」
 サッカーワールドカップが翌年にフランスで開催だった。Jリーグが発足して数年になるが、いまだに国内ではサッカーは野球ほどには社会に浸透していなかった。
 「フランスにはプロ野球はあるんですか?」
 「詳しくは知りませんが日本ほどには人気のあるスポーツではないと思います。そういえば、アパートによく新聞勧誘が来るのですが、洗剤とドームでの野球観戦のチケットをあげるから購読してくれってしつこい時があります」
 「それで、どうしてるんですか?」
 「そういう時だけ日本語が分からないフリをします。フランス語でまくし立てるとすごすごと帰って行きます。でもたまに分からないだろうと思ってすごく下品な捨て台詞を吐きながら帰って行ったりもされます」
 「捨て台詞? どんな?」
 「最近だと『金髪女か、一回ってみてぇ』と言われました」
 「品がないなぁ」
 「まったくです。ああいうのって仮に言葉が通じなくてもそういう目で見てるのって伝わりますね」
 僕は早足のほうだが、特に気を使わなくとも背が高い彼女は同じ早さで歩いている。
 「緑が多いのもいいけど、僕は海が近いほうがほっとします」
 「どこの出身ですか?」
 「松山です」
 「子規と漱石の街ですね」
 即答だった。留学してくるほどだからかなり日本文学には詳しいとは思うが、本気で何かを学んでいる人間の凄さをあらためて感じた。そんな研究生活の合間を縫うように、マリアンヌは練習会に顔を出し続けた。

 年末の高速バスはうかうかしているとイブの夜しか空席がない。
 バスターミナルそばにある東京駅構内の売店から有線の音楽が流れてくる。「ワム!」の「ラストクリスマス」だ。耳にするのはきょう何度目だろう。
 今回もイブにしか座席の予約ができなかった高速バスで実家に帰ろうとしたら、バスターミナルに向かう途中の地下鉄で起きた人身事故で発車時刻に間に合わなかった。八重洲口にある公衆電話から実家に電話する。恐ろしい早さでテレカの度数が減っていく。電話口で母親が、いくらか振り込むから飛行機なり鉄道なり帰れる手段でなんとか年末は帰っておいでという。その言葉に涙が出そうになった。とりあえず今夜はアパートに戻ることにして、電車に乗った。イブにアパートで一人で過ごすことを思うと、いつもより一層車両内のカップルが目につく気がした。そういえば夕方のニュースで、制服姿の男子高校生が彼女にプレゼントするオープンハートを買うためにティファニーに列をなしていたとやっていた。ごく一部ではいまだバブルははじけてはいないようだ。
 乗り換えの四谷駅のホームで肩を叩かれた。相手の顔を見る。その華やかな笑顔にマリアンヌと認識するのに数秒必要だった。
 「見違えますね」
 失礼にもうっかり口走ってしまった。それくらい普段とは雰囲気が違っていた。欧米女性にとっては化粧は文字通り「make」、作り上げるものらしい。
 「眼鏡もしてないし別人かと思いました」
 「ミサに行った帰りなので、いつもより少しきちんとしています」
 コート姿で彼女はくるりと一回転した。
 「ミサ?」
 「上智大学に行ってました」
 上智大キャンパスの聖堂で行われるクリスマスのミサは、そこの学生でなくても出られるということだった。
 「いつもそんなふうにしていればいいのに」
 「秘すれば花と申します」
 マリアンヌは少し照れたように笑った。彼女によると、公費留学の身分なので普段は質素にしていないと他の留学生に陰口を叩かれるのだそうだ。
 「家も裕福ではありません。祖父はもともとユーゴスラヴィアからの移民です。父も無理をしてわたしを大学に行かせてくれました」
 来日してから一度も帰国していないし、年末年始も東京で一人過ごすということだった。
 「淋しいですね」
 「だから、来年家族でワールドカップを観戦するのを凄く楽しみにしています」
 どこからか聞こえていた山下達郎が鳴り止むと、今度はマライア・キャリーに変わった。
 「賑やかですね、日本のクリスマスって」
 「イベントですからね。フランスではどうなんですか?」
 「もっと宗教色や儀式色が強いです。ただ、わたしはカトリックですが祖父は正教だから家族で派手に何かをする夜ではなかったです。それに、我が家では年に2回ありましたし」
 「クリスマスが年に2回?」
 「私たちは12月25日ですが、正教の祖父は1月7日がクリスマスでした」
 「お正月と旧正月みたいですね」
 マライアが終わると、今度はジョン・レノンだった。「きみが望めば、戦争が終わる」というフレーズが響く。
 「夕飯食べました?」。彼女に聞く。こんな夜にアパートに帰って一人コンビニ弁当もないだろう。
 「まだです」。心なしか嬉しそうだった。
 「僕もまだです。どこか入りましょう」
 改札を出ると四谷は凄い人混みだった。だいたいどの店も満席で、ようやくチェーン展開しているスパゲティ屋さんに入れた。
 「今日ぐらいは許されるかな」
 そうはにかみながらマリアンヌは赤ワインのカラフェを注文した。次から次へと客が入ってくるのでゆっくりは食事できず、半ば追い立てられるように店を出た。駅へ戻る人混みで彼女は誰かにぶつかられた。はずみで右目のコンタクトを落としたらしいが、探しようがなかった。
 「大丈夫ですか?」
 そう声を掛けると、照れ臭そうに彼女は右手を差し出した。ワインのせいもあるのか頬が上気している。
 「手、引いて下さい。見えなくて歩けません」
 人を押し分けながら駅まで歩いた。
 改札口で少し立ち話になる。
 「あなたは優しいですね。練習会でも一番たくさん話しかけてくれました」
 特に意識していた訳ではない。ただなんとなく、ぽつんと一人で練習場の片隅にいる彼女が気になってはいた。
 会話が途切れた。
 体を小さなリズムで揺らしながらマリアンヌは何かを待っているようだったが、やがて「あ、レンズありました。目の中でずれてただけみたいです。帰れます。それでは、おやすみなさい」と言った。
 「うん、おやすみなさい。少し早いけど、良いお年を」。そう僕が答えると、彼女がハグしてきた。良い香りがする。「ジュワイユー・ノエルメリークリスマス」。僕の耳元で囁くと、彼女はさっと改札の向こう側に行ってしまった。

 コンタクトレンズがずれたのなら痛いよな。
 帰りの電車の中でふと考え、一つのことに思い当たった。本当は「部屋まで送ります」の一言を期待されていたんじゃないのか。その一言で何かが変わったんじゃないだろうか。
 年が明けた。練習会場で会うマリアンヌは元の地味な彼女だった。あと二カ月と少しで帰国して、夏には家族でサッカー観戦に行くのだろう。僕は何かを変えられるタイミングを逃した気分のまま、就職活動が始まる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?