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「花束みたいな恋をした」を観た。え、めっちゃ視聴者をバカにしてない?

Netflixで10月16日に公開された、「花束みたいな恋をした」という映画を見ました。興収30億円、観客動員数223万人以上のヒット作品となったらしい。映画館では2021年の1月に公開されてるらしいので、話題としてはちょっと乗り遅れているものの、いろいろ感想を書きたくなる話でした。

大丈夫か、視聴者めっちゃバカにされてるぞ?

まず、この映画の主人公に対する認識を改めておきましょう。主人公の二人には菅田将暉と有村架純が起用され、エモい絵作りで素敵なラブストーリーに見えているかもしれませんが、雰囲気を取り除いてよくよくみてみれば、からっぽで平凡な人たちのお話です。

序盤で2人がどれほど平凡であるかが描かれています。絹はお笑い芸人の天竺鼠のライブに行く途中でよくわからない男に誘われ、ライブに行くのをやめて終電まで飲み、挙句の果てには男を別の女に取られて1人でネカフェで過ごします。

麦もいいヤツそうではありますが、ただのいいヤツ止まりで彼女がいるわけでもなく、それほどモテるタイプではなさそうです。後半ではイラストレーターとして生活していこうとしますが、3枚描いて1000円と安く買い叩かれ結局サラリーマンになります。プライドもなく値引きして、イラストレーターになるために寝る間も惜しんで絵の練習をしているというわけでもありません。

そんな2人は自分自身がモテない理由を、ちょっとマニアックな文学や作品などのカルチャーに傾倒していて、一般人には理解されない非凡な存在だからだと解釈しています。

ところが、実際のところ絹は天竺鼠のライブに、よくわからない男に誘われただけで行くのをやめてしまいます。本当にカルチャーに心酔している人間は飲みを断ってライブに行くはずです。

そんな好きなものが共通している2人は偶然出会い、趣味を共有できる喜びのままに付き合い、同棲します。

映画内で2人はさまざまな作家名や作品名を口にしますが、それらの作品の内容は映画のストーリーに何ら影響を与えません。それらの固有名詞は彼らのちょっとマニアックな属性をあらわすに過ぎず、それらの作品の具体的な中身について2人が感想を語りあったり論戦を交わすことはありません。

2人にとってカルチャーは、ただ自分たちが非凡であるという自意識を確保するために身にまとうファッション、記号にすぎないのです。

彼らの価値観のすりあわせは最初から最後まで行われません。お互いの人格が好きになったわけでも、価値観を対話でアップデートしてるわけでもない。ただ偶然好きなものが一緒だったから運命を感じてくっついた。だから、麦が社会に揉まれて好きなものが変わってしまったら、2人は一緒にいられなくなってしまった。当然のなりゆきです。

そんな2人に自分自身を重ねて共感する視聴者たち

この作品はそんな2人の同棲生活に恋愛あるあるを詰め合わせて、ふわっとエモい雰囲気のオブラートに包んで、「これが今の若者たちなんでしょ?どう、共感するでしょ?」と、おっさんの考えた俺的若者像を2時間見せられ続けるわけです。

この作品にはそんな平凡で未熟な主人公に対する批判的視点もあるはずなのですが、その視点はほとんど隠されていて、視聴者もそこまで読み取ることをせず、自分を重ねて感動しています。

え、めっちゃバカにされてますよね?あなたたちってこんな感じの平凡な普通の人なんでしょ、って言われてるわけですよね。この映画の制作陣は、かなり性格悪いと思います。

問題の本質は、2人の平凡さではなく、まともな人間関係を築けないことにある

とはいえ、自意識過剰な平凡な人々が自分達の平凡さに気づくまでのお話だとか、カルチャーをただ記号としてしか消費できない若者、といった批判はすでに十分でているようなので、ここではさらに一歩踏み込んだ議論をしてみたいと思います。

本来、平凡であること自体は悪いことではありません。そりゃ、才能を比較してみれば世の中の8割は平凡になります。それでもいいじゃないですか。すべての人の中で1位になる必要なんかなくて、周りの人たちに愛されていればそれなりに幸せで、それでいいと思うのです。

問題は平凡であることではなくて、全人格的な人間関係を築けないことにあります。全人格的というとちょっと難しいかもしれません。人の一面だけを評価するのではなく、当たって砕けろ的に自分のすべてをお互いにさらけ出して付き合うことです。2人が付き合うときには猛烈に好きというわけでもなく、お互いにどこが好きか言うこともなく、ぬるっと付き合います。

2人はお互いの考え方に、どのように影響を与えたのでしょうか?別れた後に振り返る絹のセリフを聞けば、実にくだらないことの羅列しかありません。「SMAPのライブ行ったな」「髪の毛乾かしてもらったな」「焼きおにぎり美味しかったな」。そんな記憶が「花束みたいな恋」とは笑ってしまいます。お互いの人格が変わってしまうような、強烈な記憶は存在していません。

他者感覚のなさが日本人の劣等性

好きなものを好きなままに共有し双子のように付き合うのは、2人に他者の感覚がないことを表しています。考え方の違う他人と対話を通して付き合っていくには、アイデンティティが確立して自己と他者の区別がついている必要があります。2人には自己が確立していないために、他者感覚も存在しないのです。

それは、大学生というモラトリアムの期間だからなのでしょうか?いえ、思想家丸山眞男が指摘したように、他者感覚のなさは日本人に共通する劣等性です。

本来は平凡であることと、麦と絹的な劣等性は別の問題であるはずなのに、そこが不可分になっているということが、日本人の深刻な問題といえます。

麦の社会人に対する意識も実に稚拙です。好きなものをあきらめて我慢して責任を持つことが「社会化」であると考えている。本来はアイデンティティが確立し、他者の置かれた立場に共感する力(ピティエ)をそなえた個人が、多様な構成員との対話を通して自らの考え方をアップデートし、みんなで決め事をしていく。それがルソーが理想とした社会人のイメージです。2人の関係性すら擦り合わせられない麦に、それができるようには思えません。

平凡であってもよいけど、この映画に無条件に共感してしまうような個人が増えてしまった社会がよいはずがない。平凡な日本人像を変えていくことが必要ではないかと思うのです。

日本社会はハイコンテクストであるという前提を捨てるべきなのでは?

麦と絹は同じ趣味を共有していることで、わかりあえていると勘違いしていますが、本当はまったく分かりあえてはいません。

日本はしばしハイコンテクストな社会だと言われます。ハイコンテクストとは、同じ文化や習慣を共有していることで、阿吽(あうん)の呼吸的な言葉以外の表現に頼るコミュニケーションをいいます。

それに対してローコンテクストな社会とは例えばアメリカで、多様な人種や宗教や文化が入り混じっているために、前提から言葉で説明しないといけないのです。ローコンテクストな文化では思考力や表現力、議論する力が求められます。言葉で言わなければわからないから、カップルは挨拶のようにアイラブユーといいあいます。

今の日本社会はハイコンテクストであるという前提からもたらされる問題が多いのではないでしょうか?数年前の「忖度」もハイコンテクストゆえの問題ですし、麦と絹も日本の中のさらにニッチなジャンルの共通の趣味をもつ極めてハイコンテクストな関係性でした。

しかし、ハイコンテクストであると思い込んでいるものの、2人は本当に理解し合えているわけではないということが、この映画を通して示されました。さらに、消費者が脚本家の意図を読み取れずに、キャスティングの容姿や映像の空気感にのまれて映画を評価している状況も、メタ的にそのことを証明しています。

日本はもはや中流階級は崩壊して格差も広がっています。静かに分断は広がっているのです。もはや日本社会はローコンテクストであると意識を切り替えることによって、平凡な日本人像を変えていけないでしょうか?あるいは、強制的にアップデートしないといけないフェーズに差しかかってるのかもしれません。


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