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【短編小説】 実験室と先生

 教室の窓の外を眺めている間に期末試験は終わって、そんなふうにしてこの夏も過ぎていくんだと思った。子供の頃から夢見がちというか妄想好きで夏の熱気に蜃気楼をみるようにどこか遠くを見てた。片手に持ったアイスが溶けて滴る。果糖だけが手に残ってそのベタベタをテッシュで拭き取るけど、拭いきれないそれは皮膚の一部になってしまうようでそんな感覚が好きじゃなかった。春を奪われたっていう表現も好きじゃない。別に何事も一方的にってわけじゃないんだからさって思う。
 夏休みの始まりは1学期の地続きで補講が続いたけど教室に流れる雰囲気は普段よりゆるやかで、午後から始まる部活動に備えてスポーツ系のTシャツや短パンを着て教壇に立つ先生も増えていたから、学校全体が何かから解放されたかのように足も腕も思いっきり伸ばして過ごせた。
 3限目の終了を告げるチャイムが鳴れば、化学係の私は先生に付き添って実験室に三角フラスコとかシャーレーとか駒込ピペットとかを運ぶことが補講中の日課だった。階段を登って別棟へと廊下を渡る、その束の間に私と先生は二人でいろんなことを喋った。この学校に赴任してきたばかりの先生は歳もそれほど離れていないから共通の話題で盛り上がって、呼び方も岡田先生から雅人先生に、そしてマサちゃんに変わって、先生が私を呼ぶときも寺下さんから寺下になって、ミユに変わった。
 日差しが差し込む実験室は半分だけカーテンが引かれていて影も多い。白と黒に二分された教室の黒側に配置されたガラス棚に実験器具を片付けながら、マサちゃん、と小さな声で呼びかけて、一呼吸だけ置いた。昨日ね、隣のクラスの男の子に告白されたんだ、なんて隣に立つ先生に、告白されたことを告白した。
 どうしてわざわざ伝えてしまったんだろうと口にしてからそんなことが頭をよぎったけれど、落ち着いて考える暇はなかった。先生が私の両肩を掴んで正面から見つめ合う形になったからだ。カーテンの裾が揺れて日溜まりが私たちを飲み込む。その瞬間に照らされた先生の眼差しが切実だったから、あぁ、大人でもこんなまっすぐな目をするんだってそのときになって初めて胸が苦しくなった。だから途端に焦って手に持っていたフラスコを床に落としてしまって、散った破片が夏の光を乱反射させた。
 先生は我に返って、一言ごめんと謝ってから怪我がないか心配してくれた。それから箒とちりとりで床に散らばった夏のかけらを集めて不燃物の青色のゴミ箱に捨てた。実験室を出るときにもう一度怪我のことを聞いてくれた。本当は片付けを手伝ったときに破片に触れて人差し指を切っていたけれど、大丈夫だよって答えた。正直に言えば先生は優しいからすぐに保健室に連れて行かれるだろう。そしてエタノールを染み込ませた清潔なガーゼで消毒されて、絆創膏を巻かれるだろう。それはそれで甘いけれども、この出来事が保健室の先生にも共有されてしまう。それはなんだか嫌だったから、傷になるなら傷のままでいいから先生と私だけの秘密にしたかった。ユミを驚かした償いにさ、アイスクリーム食べに連れて行ってよ、先生の白衣の裾を掴んで思い切って誘ってみた。たったひと夏限定の恋が始まった日だった。

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