ぼくは彼女のお母さんからバレンタインクッキーをもらう

 ぼくは彼女のお母さんからバレンタインクッキーをもらう。ぼくには交際2年目の彼女がいる。一昨年の春、首都圏の大学の放送サークルの懇親会で知り合った。だから「交際2年目」というより「そろそろ交際3年目」なのだが、もしかしたらそれまでに別れるかもしれないし、そうなったら「そろそろ交際3年目」なんて能天気に発信していた自分が馬鹿みたいになってしまうので、ここでは「交際2年目」と書くことにする。ぼくはプライドが高い悲観主義者なのである。

 さて、今年のバレンタイデー。ぼくは今年も3人の女性からチョコをもらった。ただし、「3人」の顔ぶれは去年とは異なる。去年はバイト仲間の東條さん、放送研究会の後輩の佐々木、彼女の由梨からチョコをもらった。しかし、今年は東條さんと佐々木からはもらえなかった。東條さんはとっくにバイト先を退職しているし、佐々木とは今年はバレンタインシーズンに会う機会がなかったからだ。まあ、会っていたところで今年もくれたかどうかは分からないけどさ。

 今年のバレンタイデーにぼくにお菓子の類をくれたのは、バイト先の筒井さん、彼女の由梨、そして由梨のお母さんだ。

 バイト先の筒井さんは去年からうちのコンビニで働き始めた50代ぐらいの女性で、どうやら朝〜午前帯に働いているようである。夜勤のぼくとはシフトが入れ違いだが、挨拶を交わしたりぐらいはするので顔見知りである。今年、ぼくは退勤時に「(ぼくの名字)くん!」と筒井さんから声をかけられて、チロルチョコやマシュマロやチョコバーの詰め合わせセットをもらったのだった。言うまでもなくバイト先の人間全員に1人1袋ずつ渡しているものである。自腹を切っての義理チョコサービス、誠に頭が下がる。

 ぼくは誠実な男である。ホワイトデーの数日後、お店のバックヤードで筒井さんにきちんとお返しの品を渡した。セブン-イレブンの「7プレミアム ラングドシャホワイトチョコ」である。たしかにぼくはコンビニでバイトしているが、バイト先はセブン-イレブンではない。その場にいた先輩からは「なんでセブン-イレブンなの(笑)」と笑われたが、筒井さんが喜んでいたのでよしとしよう。実際、セブン-イレブンで買ったのは半分ウケ狙いだし。あ、でも「ラングドシャホワイトチョコ」は本当に美味しいですよ!

 由梨からはデジレーというブランドのチョコレートをもらった。箱のイラストやデザインがかわいらしくて、チョコレート自体も美味しくて、別に不満はないのだが、実はぼくは今年も由梨からはゴンチャロフのチョコレート(動物の顔の形をしたやつ)をもらえるのではないかと内心期待していたので、ちょっとだけがっかりしてしまった。あの動物の顔の形のやつ、めちゃくちゃポップで好みだったんだけどな。……いや、そんな生意気なことを言ってはいけません。

 ただ、由梨から「これはお母さんから(ぼくの下の名前)くんにって」と言われてチョコとクッキーが入った袋を渡された時には、さすがのぼくもフリーズした。……はあ? なんで由梨のお母さんがぼくに? ぼくは自分の母親からさえ何ももらっていないというのに。しかも由梨の話によると、これは由梨のお母さんの手作りチョコと手作りクッキーなのだという。たしかにホームメイドな感じの外観だ。小学生の時に同級生からもらった手作りチョコを思い出す(良い思い出ではない)。

 ぼくが由梨に「なんで香織さん(※由梨のお母さんの名前)がぼくにくれるんだよ?」と聞いたら、由梨は「(ぼくの下の名前)くんのことを好きになっちゃったみたい。今度、歌舞伎も一緒に観に行きたいって言ってたよ」と答えた。なんでだよ。おかしいだろ。あり得なさすぎるだろ。

 ぼくが「『好き』ってどういう意味? 香織さんはなんでぼくのこと好きになっちゃったの? おかしいよ、そんなの!」と涙目で訴えたら、由梨は笑いながら「いや、恋愛感情じゃなくて『気に入った』って意味だから。去年(ぼくの下の名前)くんに会って、すっかり好きになったみたい」と言ってくる。やめてくれ。恋愛感情じゃないのは一安心だけど、なんだか気味が悪いよ。ぼくがゲイであるせいかもしれないけど。

 ぼくが悪寒に震えながら手作りチョコ&クッキーの袋を眺めていたら、由梨が「一個食べてみたら?」と半笑いで言ってきた。ぼくは真顔で由梨を見つめたあと、おそるおそる袋の口を結んでいる針金をほどき、クッキーを一枚だけ取り出す。うーん。美味しそうな色だし、美味しそうな匂いもするけどさあ。食中毒のリスクは拭い切れないぞ。

 ぼくは袋の中からもう一枚クッキーを取り出し、由梨に「由梨も食べて! 由梨も!」と要求する。由梨は「わたし? わたしはもう食べたよ。たぁくん(※由梨の弟の孝彦くん)も食べてたし」と言いながらも、ぼくからクッキーを受け取り、さっそくパクッとかじっている。……ん? 孝彦くんも食べたの? いまそう聞こえたけど。

 由梨によると、由梨のお母さんはバレンタイデーに毎年、家族やご友人のためにチョコレートやクッキーを作っているのだそうだ。由梨はそのことを以前ぼくに話したというが、ぼくには聞かされた記憶がないのでおそらく嘘だろう(あるいはぼくが聞き流していた可能性もあり)(というかそっちのほうが可能性が高い)。まあ、いずれにせよ孝彦くんが食べたなら安心だ。むしろ、ぼくは孝彦くんが食べたのと一緒のものを食べたい。一緒のものを飲みたいし、一緒の本を読みたいし、一緒のベッドで寝たい。なんなら一緒に人生を歩んでもいい。ぼくは孝彦くんが好きです。念のため言っておきますが、ここでの「好き」とは「気に入っている」という意味ではなく、性的な意味での「好き」です。もちろん、相手は高校生なので手は出しません。ぼくにだって世間体はあるのです。ただ、孝彦くんが18歳になって、ぼくと肉体関係を結びたいとほんの少しでも願うのであれば、ぼくはその願いに即応します。健全なゲイとしてここに誓います。すいません、つい熱くなってしまいました。

 由梨のお母さんが作ったクッキーは甘めでサクサクで、とても美味しかった。去年の11月に由梨のご実家にお邪魔して夕食をいただいた時にも思ったけど、由梨のお母さんは料理の腕前がプロ級なんだよな。もしかしたら実は料理研究家なのかも(ぼくはそのことを由梨から教えられたのに忘れているだけかも)。クッキーを食べながらぼくが由梨に「美味しい」と言ったら、由梨は笑顔で「うん、美味しいよね」とうなずいていた。まあ、毎年食べているならご存じですよね。

 ここでおさらい。なぜぼくは最初、由梨のお母さんから手作りクッキーをもらったことを不気味に感じたのか。そしてなぜその後、不気味を克服して「美味しい」と感じるようになったのか。それは、由梨のお母さんがぼく個人に好意をぶつけてきたわけではなく、由梨のお母さんにとってぼくは「好きなひとたちの一人」にすぎないということが判明したからだ。

 もしも由梨のお母さんがぼくに何らかの特別な感情を抱いていた場合、ぼくはその想いに応えられない。由梨のお母さんは素敵なひとだとは思うが、ぼくにとって「特別な関係」になりたい相手ではないのである。しかし、ぼくは由梨のお母さんから「好きなひとたちの一人」、つまり one of them として扱われる分には嫌な気がしない。「特別な関係」になりたいわけじゃない相手から「特別な関係」を望まれるのは困った事態だが、料理が得意な素敵な大人から「あなたも友達の一人ですよ」と適度な距離間で接してもらうのはむしろ光栄なことだ。その後、ぼくは2日かけて由梨のお母さんの手作りチョコレート&クッキーを美味しく完食した。食べ終わるのがもったいなくてしょうがなかった。

 ぼくは誠実な男である。1か月後のホワイトデー、ぼくは由梨経由で由梨のお母さんにお返しの品を渡した(もちろん由梨にも渡した)。蒲田のコージーコーナーで買ったマドレーヌの詰め合わせだ。種類がいくつか入っていて、箱がかわいらしいフォルムのやつ。ぼくって贈り物選びの天才だよな。

 ぼくが「これは香織さんに渡しておいて」と言って由梨にそのマドレーヌの箱を渡したら、由梨は「お母さんにも買ってくれたの? ありがとう」となぜか感謝の言葉を述べたあと(本人じゃないのに)、ぼくの目を見て「もしかして、お母さんのこと好きになっちゃった?」と意地悪な笑みを浮かべながら言ってきた。なんでだよ。そんなわけないだろ。いや、ぼくがノンケだったら美人で料理が得意な大人の女性に惚れる可能性はありますけどね(たとえ年齢が30歳ぐらい離れているとしても)、あいにくぼくは生粋のゲイなのです。目の前のあなたのことさえ実は恋愛対象じゃないのです。……なんてことをぼくが由梨に面と向かって言えるはずはないので、ぼくは苦笑いしながら「……かもね」と返しておく。うーん。今年のバレンタインデーとホワイトデーもなかなかビターな味わいでした。

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