ぼくと彼女は棟方志功展へ行く

 ぼくと彼女は『棟方志功展』へ行く。正確には『棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ』である。先日、ぼくと由梨は、東京国立近代美術館でやっているこれに行ってきた。ぼくはサークルの後輩の男子が大好きだという話をこの前ここに書いたばかりなのに節操がないが、行っちゃったもんはしょうがない。ゲイが異性と付き合っていて、毎週日曜にお出かけしていて、それをも自分の人生だと開き直っているとこういう展開になるのです。

 日曜のまだ午前中、JR京浜東北線蒲田駅のホーム(大宮方面)で待ち合わせ。「待った?」「待った」というやり取りのあと(いつも微妙に遅刻してごめんなさい)、そのまま一緒に京浜東北線に乗って、新橋駅で東京メトロ銀座線に乗り換えて、日本橋駅で東京メトロ東西線に乗り換えて、「毎日新聞社前です」という車内アナウンスを聞きながら竹橋駅で降りる。ぼくと由梨は東京国立近代美術館へ行くのが今回が初めてではない。ぼくの大学も由梨の大学もここのキャンパスメンバーズ(国立美術館と大学の癒着制度)に加盟していて、常設展だったら無料で観れるし、企画展も学割料金からさらに割引になるので、付き合って早期の段階で一緒に行っているのだ。

 改札へ向かう途中、何人もの成人男性たちとすれ違う。前に一緒に竹橋駅で降りた時と同様、ぼくは由梨の耳元で「いますれ違ったひと、絶対毎日新聞の記者だよ」とささやく。もちろんデタラメである。由梨は呆れた顔で「日曜日なのに?」と言い返してくる。ぼくは「報道の世界に平日も祝日もないんだよ」と応える。由梨は呆れと苦笑の中間みたいな表情で「スーツ姿じゃないんだね」とツッコんでくる。ぼくは「……毎日新聞は開放的な会社だからね。去年から私服OKになった。パジャマはダメだけど。あと、スーツじゃないほうが取材対象を警戒させないで済む」と解説する。念のためもう一度書くが、もちろんすべてデタラメである。1b出口方面の階段を上がって地上へ。由梨が「なんでパジャマはダメなの?」と聞いてきたので、「……寝たままの格好だと汗臭いから」と答えておいた。

 学生証を提示してチケットを購入し、東京国立近代美術館へいざ入館。混んでいる。混雑がこれ以上深まる前に早く入場しなきゃという気持ちになって(別にいまから慌てたところでしょうがないのだが)、ぼくは展示室の入口へ直行しようとする。すると、由梨から「ロッカー、ロッカー」と声をかけられた。そうだ、リュックをロッカーに預けなきゃ。100円入れなきゃいけないけどあとで100円返ってくるロッカーに荷物を預けて、今度こそ本当に『棟方志功展』(正確には『棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ』)に入場する。ここまでですでに1,000文字を超えている。

 展示室の入口のところで音声ガイドの貸し出しが行われていた。無知を晒してお恥ずかしいが、ぼくは棟方志功について「なんとなく名前を聞いたことがある(かもしれない)」程度にしか認識していなかったので、前の日に展覧会の公式サイトを閲覧して、棟方志功の基礎情報を確認しておいた(あんまり詳しく載っていなかったが)。その時にぼくは、この『棟方志功展』では音声ガイドの貸し出しが行われていて、阿佐ヶ谷姉妹がナビゲーターを務めているらしいことを知った。ぼくは阿佐ヶ谷姉妹が好きである。NHK Eテレの『阿佐ヶ谷アパートメント』という番組を見て、『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』という本を読んでファンになった。ぼくは普段、展覧会では音声ガイドを借りないタイプの人間だが(主に経済的事情による)、今回ばかりは音声ガイドを借りたくなった。1台650円。うーん。ぜんぜん安くない。普段なら絶対に借りない。しかし今回は阿佐ヶ谷姉妹である。阿佐ヶ谷姉妹が音声ガイドのナビゲーターを務める展覧会なんてこの先二度とないかもしれない。音声ガイドの看板に写る阿佐ヶ谷姉妹がこちらに向かって微笑んでいる。……よしっ! ぼくは音声ガイドの看板に写る阿佐ヶ谷姉妹の微笑みの誘惑に負け、由梨に「やっぱり借りる」と言って、音声ガイドの受付の女性に650円を払った(音声ガイドを借りるかどうかで悩んでいる件については地下鉄の車内で由梨に相談していた)(結局2人で1台を共有するということで由梨に半額支払ってもらった)。

 さて、今度の今度こそ本当の本当に展示室に入場。あのさあ。混みすぎである。棟方志功が20世紀を代表する国際的アーティストだってことは分かるが、いくらなんでもここまで混雑しなくてもいいと思う。この前行った東京国立博物館の『横尾忠則 寒山百得』展の混雑具合(空き具合)とはえらい違いである。『デイヴィッド・ホックニー展』とどっちが混んでいるかと聞かれたら悩むところだが、こちらのほうが展示室が狭い分、体感的には混雑をより感じる。ぼくは混んでいる展覧会が得意じゃない。その点、『横尾忠則 寒山百得』展は空いているけど展示作品はすばらしいという最高の美術展だった。別に比較するもんじゃないけど、『棟方志功展』の大混雑ぶりにドン引きしながらぼくはそんなことを思った。

 ただ、この美術展が混んでいたのは当然かもしれない。棟方志功の作品はやっぱり素敵だからだ。岡本太郎的な「迫力がある」というのとはまた少し違う。「洒落っ気がある」というか「洗練されている」というか。棟方志功といえば版画なのだろうが、ぼくは棟方志功は油絵も素敵だと思った。人混みが前に進まなかったのでじっくり眺める羽目になった作品No.002の油絵。いまから約100年前、ぼくと同い年ぐらいの時の棟方志功が描いた油絵だ。白い雪が降り積もる中、赤レンガっぽい建物の前を親子らしき二人連れが歩いている。優しいけど可愛らしいけど芯のある絵だと感じた。こんなことを書くと世界中の棟方志功ファンから叱られるだろうが、この日観た棟方志功の作品のうち、ぼくはこれが一番好きかもしれない。

作品No.001(右)とNo.002(左)の油絵

 もちろん、ぼくは棟方志功の版画はイマイチだと言いたいわけではない。棟方志功が90年近く前に制作した比較的小さめな版画のシリーズがあって、その中の『月神』という作品はぼくの好みだった。まあ、これはぼくが高校時代に天文部に所属していて、星の中では特に「月」が好きだったせいかもしれないけど(適当)。もしグッズショップでこの『月神』のポストカードが売っていたら買おうと思った。

『月神』(写真下)

 無理矢理そのつながりで言うと、戦後に作られた『宇宙頌』という版画にも目を惹かれた。色が青と赤で対比されているとか、イラストが上と下で対称になっているとか、そういうシステマティック(?)な作品にぼくはすぐやられてしまう人間なのである。ちなみに、由梨はその近くにあった『弁財天妃の柵』という版画に惹かれたと言っていた。たしかに棟方志功らしい作品だとは思うが……まあ、ひとの好みは様々である。

『宇宙頌』(2枚で1セット)
『弁財天妃の柵』(1965)

 この『宇宙頌』だとか『弁財天緋の柵』だとかが展示されているスペースあたりから、少しずつ観覧客が減少していく。前にもnoteに書いたが、展覧会とか美術展というものは、入口付近は混んでいても出口に近付いていくにつれて空いてくるものなのだ(ぼくはそのことを由梨と一緒に展覧会によく行くようになってから知った)。

 ここで、ぼくは一人の若い男性の存在に気が付いた。黒いジャケットにベージュのチノパン。ロッカーに荷物を預けたのだろう、手ぶらである。音声ガイドも着けていない。年齢はぼくと同じぐらいか、ちょっと年上といったところか。どうやら一人で来ているらしい。棟方志功の版画を冷静に観ている。たまにスマホのカメラで写真を撮っている。そしてなによりイケメン。他大学の吹奏楽部の上野くん(ぼくの初体験の相手)にちょっと似ているイケメンだ。由梨と一緒にいるのに他人(まして男性)を気にするのはいけないことだと頭では分かっているのだが、そうは言っても近くにイケメンがいたら気になるのは一人の健全なゲイとして仕方ない(開き直り)。ぼくがドキドキしていると、そのイケメンがこちらに近付いてきた。あとになって考えたら、別にぼくに近付いてきたのではなく、ぼくと由梨の近くの展示作品を観るために近付いてきただけなのだが、その時のぼくは「あれ? もしかしてぼくに興味あるのか?」と内心舞い上がった。そのあと、イケメンはぼくと由梨のあとをついてきた。これもあとになって考えたら、そのイケメンは作品を順路通りに鑑賞していただけだし、仮にぼくらについてきていたのだとしたらぼくではなく由梨のほうを意識していたのだと思うが、ぼくはこの時、「もしこのイケメンが展示室の出口でぼくを待っていたら、由梨に『ちょっとトイレ行ってくる』と言ってそのイケメンをさりげなく視線で誘い、男子トイレで連絡先を交換しよう」と内心で計画するほどまで舞い上がっていたのだった(東京国立近代美術館のトイレをそんな目的のために利用してはいけません)(個室で行為に及ぶよりはマシでしょうが)

 結局、イケメンはぼくらを通り越してどこか遠くの見えないところへ行ってしまった。そりゃそうである。向こうは音声ガイドなしで観賞しているのに、こちらは音声ガイドを聴きながらゆったり鑑賞している上に、1台を2人で共用しているから鑑賞に余計に時間がかかっているのだ。ぼくはこの時ほど由梨の存在を疎ましく思ったことはなかった。もしかしたらあのイケメンはぼくに性的な興味を持っていて、ぼくと一緒に棟方志功作品を鑑賞するのを期待していたかもしれないのに。はあ。残念である(それを言うならこんな彼氏を持った由梨のほうがよっぽど残念である)。

 残念といえば、阿佐ヶ谷姉妹目当てで借りた音声ガイドのほうもちょっと期待外れだった。別に「作品の鑑賞の助け」として不満があるってわけではないのだが、細谷佳正さんという声優さんが読み上げる作品解説がメインで、阿佐ヶ谷姉妹の掛け合いトークは少なめだったからだ。ただ、阿佐ヶ谷姉妹のトークのおかげで勉強になったこともあった。それは、棟方志功が表紙を担当した本が並べられているコーナーに行った時のことだ。

 生前、棟方志功は、政治家の本の表紙のイラストや題字も手がけていた。ぼくは芸術家が政治に関与すべきでないなどとはまったく思っていない。芸術家だろうが芸能人だろうが、自分の才能を政治家の支援や政治活動に活かすのは本人の勝手だと思っている(公職選挙法に抵触しない限り)。ただ、この時にもう「世界のムナカタ」と呼ばれていた大芸術家が、この時はまだ若手にすぎなかった国会議員の本の表紙を描いていたことになんとなく違和感を持った。どういうつながりがあったのかとか、余計なお世話だけど、自分の権威が利用されていることに鈍感なんじゃないかとか。音声ガイドの阿佐ヶ谷姉妹は、まるでぼくの疑問に答えるかのように、「棟方さんは誰からでも頼まれたら喜んで描いちゃうのよね」「日本にいる限り棟方さんからは逃れられないのね」「怖い言い方するわね」という掛け合いを耳元でささやいてくれた。なるほど。棟方志功は仕事を頼まれたら断らずに引き受けちゃうタイプの芸術家だったのか。クライアントで仕事を選ばなかったのは芸術家として純粋だった証しなんだな。ぼくの違和感は氷解した。やっぱり音声ガイドを借りてよかった。さっき「ちょっと期待外れだった」と書いたのは撤回します。十分に貸出料金の元が取れました。

棟方志功が手がけた本の表紙

 そうしてぼくらは、ゴッホの『ひまわり』をモチーフにした版画だとか、ゴッホ兄弟のお墓を描いた版画だとか(棟方志功は昭和30年代に実際にフランスのお墓に行ったらしい)、あるいは自画像だとか、つまりは棟方志功の晩年の作品が陳列されている最後のコーナーへ向かう。耳元の音声ガイドからは「棟方さんの作品もお人柄も素敵だったわね」「棟方さんの絵から元気をもらったわ」「肌もツヤツヤになったんじゃない?」「棟方さんも私たちも同じ眼鏡キャラ同士頑張りましょうね」「ガンバ!」という阿佐ヶ谷姉妹の掛け合いが聴こえてきて心が和んだ。音声ガイドのこの最後のパートは、まず最初にぼくが聴いて、次に由梨が聴いたのだが、ぼくはもう一度聴きたくなって、出口付近で由梨に「もう一回聴かせて!」と頼んでもう一度聴かせてもらった。こういう時、由梨が相手だとほとんど気を遣わないでいいから楽である。音声ガイドの阿佐ヶ谷姉妹は「最後は棟方さんが好きだったこの歌でお別れしましょうか」と言って、最後の最後にベートーヴェン交響曲第9番『歓喜の歌』をドイツ語で歌った。やっぱり阿佐ヶ谷姉妹の歌って素敵だよな。『阿佐ヶ谷アパートメント』のエンディングで流れる「物干し台の夜」という歌、早くストリーミング配信してくれないだろうか。

 音声ガイドを返却して展示室を出る。そのままグッズショップへ。ポストカード売り場のコーナーを見たら、やっぱりだ。ぼくが「もしこの絵のポストカードが売っていたら買おう」と決めた絵柄に限って売っていない! もちろん『月神』も売っていない。一方、由梨は自分のお気に入りの絵柄を見つけたようで、「これも買おう」とか言ってポストカード2枚分を手に取っていた。2枚も買うとか金持ちかよ。ぼくが由梨の行動を呆然としながら眺めていると、視線に気付いた由梨が「何? お金がないなら立て替えようか?」と言ってきたが、違う、ぼくにはお目当てのポストカードがないのだ(お金もないけど)。

 由梨のお会計に付き合い、グッズショップを退却。あたりを一応を見回したが、例のイケメン(黒いジャケットにベージュのチノパン)はどこにもいなかった。もう帰っちゃったのかな。それとも常設展のほうに行ったのかしら。まあ、現実なんてこんなもんだ。チャンスの神様には前髪しかないし、『棟方志功展』の会場には出会いがない。というか、彼女とデートに来ておいて男性との出会いを期待するのがそもそも間違っているのである。

 そんなわけで、ぼくは、彼女と一緒に『棟方志功展』へ行って、阿佐ヶ谷姉妹の助けを借りて棟方志功の作品をより深く楽しみ、たまには音声ガイドを借りてみるのも悪くないなと思ったのでした。そのあとぼくらは常設展のほうへ行き、棟方志功と同時代(?)の版画家たちの作品を鑑賞して、「もしかしたらぼくは棟方志功の作品よりも川上澄生というひとの作品のほうが好みかもしれない」などと思ったのだが、それはまた別の話です。そういう話をいちいち書いていたら本当にキリがない! 

川上澄生『南蛮船図』(1940)

 東京国立近代美術館を退館。この日は天気がよかったので、この前みたいに皇居のほうを歩こうということになって、国立公文書館の前を通過してお堀のほうへ向かう。北の丸公園の前の歩道橋を渡る時、スーツ姿の中年男性とすれ違った。ぼくは由梨の耳元で「ほら、毎日新聞の記者だよ」とささやく。由梨が「毎日新聞のひとは私服なんじゃないの?」とツッコんでくる。くっ、微妙に細かい設定を憶えてやがる。ぼくは「……いや、私服で出社してもいいってだけで、スーツが禁じられてるわけじゃない。というかスーツ派のほうが多い。特に中年の記者は慣れ親しんだスーツで出社したがる。そのせいで若手社員は私服で出社しづらくて、毎日新聞の社内ではいまそれが問題になってる」と解説した。考えてみるとぼくのこれも「音声ガイド」と言えなくもないな。細谷佳正さんみたいにイケボじゃないし、阿佐ヶ谷姉妹みたいに歌わないし、そもそも言っている内容すべてデタラメだけど。ぼくと知り合いになるとこの音声ガイドが無料で楽しめます。650円払わずに楽しめます。いかがです、この音声ガイド。ご利用をご希望の方は、美術展の展示室でぼくを見つけて近付いてきてください。もしあなたがイケメンだったら男子トイレで連絡先を交換させていただくかもしれません。

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