私の父方の祖父は本名が「与太郎」だったので何かとからかわれた様だった。

『いじめやからかいなどの否定からは楽しいことは生まれない。「すべての楽しさは肯定から発生するのだ」という笑いの深い哲学を「寿限無」を通じて訴えているのが落語の本質ではないかと、考えてしまいました。その女の子の優しい感受性に深く感謝するのみですが、「落語は人間のだめさ加減を描いたもの」という私の考えは、師匠・立川談志の落語の定義「落語は人間の業の肯定」というのを、わかりやすく翻案したものです。談志は天才でした。「新聞で正しいのは日付だけだ」「愛情は相互のエゴイズムのバランスだ」「究極の環境保護は人類滅亡だ」「結婚は長期売春契約だ」などと、過激とも思える定義をし、また毒舌タレントとしても一世を風靡した人です。奇怪な言動から弟子たちはかなりカリカチュアしてネタにしていますが、実際は優しい人でした。〜毎日罵声に近い小言を浴びてきましたが、「いいか、俺が今怒ったのは、お前の人格攻撃ではない。お前の言動からなんだ」と、かならずフォローしてくれたものです。ここが昨今話題となっているパワハラとは完全に一線を画していました。〜そういう談志の口癖だったのが、「落語は人を殺さねえから好きだ」でありました。そうなんです、落語は基本、人を殺しません。「怪談噺」などの一部の落語にはそんな場面は出てきますが、基本寄席で普通に演じられるネタにはまずそのような場面は皆無です。ここが映画やドラマなどとは違うところです。それでは落語はどのような「笑い」を扱うのでしょうか?そこで浮かび上がって来るキーワードが「共感」です。談志の定義した「人間の業の肯定が落語」に照らし合わせ見てみると、業というのは、かみ砕いて言うならば「人間眠くなれば寝ちまうもんさ」「やるなと言ってもやっちゃうのが人間なんだよ」ということなのです。談志は、「酒が人間をダメにするんじゃない。人間というものはもともとダメなものだということを酒は教えてくれているんだ」とも言っていました。〜特定の個人の属性である、容姿、服装、出自などを揶揄したりヘイトしたりする笑いが落語には一切ありません。落語を聞いて優しいなと思えるのは、「そういう差し障りのあることは絶対に避けよう」という過去の先輩落語家たちの知性とプライドがベースとなっているからでしょう。〜落語を語ってゆく中で、個人を特定されやすい失敗に対して、与太郎という「ドジで間抜けな言動をするキャラ」を設定して、「愚かしいしくじり」をすべて架空の人物の所業にしてしまったのです。人間のあらゆるダメさ加減を与太郎に一手に具現化させたという意味でいうと、与太郎というのは落語家が編み出した発明品のような存在でもあります。ぜんぶ与太郎のせいにしてしまえば、誰も傷つけない差配にもなります。「落語の優しさは与太郎で担保されているのでは」という妄想に基づいて私は『なぜ与太郎は頭のいい人よりうまくいくのか』という本を出版しました。これも談志のセリフ「与太郎は決してバカじゃない」という一言から書けた本です。談志の与太郎への愛が根底となっています。〜かつては昭和の頃でしょうか、平気で他人の身体的欠陥やら弱者差別やそれに近いことを突くような笑いが流行った時期もありました。LGBTなどという概念のなかったころはそれが当たりまえでもあったような気さえします。それを無責任に他愛なく笑っていたのですが、やはり時代は変わりました。そしてその象徴ともいうべきさすが令和だなあと思える一件に遭遇しました。〜優勝したミルクボーイのネタは、「現代の共感」そのものにあります。「誰もが見落としているけれども言われればああそうだと膝を打つコーンフレークや最中」にスポットを当てた点はまさに日本人の大好きな落語系の共感ネタでした。彼らが落語研究会出身であるということもその証左であります。そして特筆すべきは「ぺこぱ」のツッコミです。ツッコミというのは、ある意味「他者の否定」であります。それをそうではなく、別の角度から見れば「こうも見えるよ」という新たな視座の提示に切り替えている点が斬新でした。かような「誰も傷つけない新種のツッコミ」はとても「優しい」感じがするものでした。いつの時代も笑いは世相を反映するものであります。が、それと同時に昨今の落語ブームという背景に照らし合わせてみると、むしろ落語の世界観に近づいてゆくような先祖帰りみたいな「優しい笑い」がさらにこれから勢いを増してゆくのではという予感を覚えています。元来日本人は、争いごとを嫌い、上手に共感力を発揮し、なんとか調和させながら生きてきました。共感力は分散力でもあります。うまい具合に物事に折り合いをつけて平和をキープし続けてきたのが世界史的にも奇跡と言われた江戸時代であります。そして、そんな江戸の世に生まれたのが落語です。』

私は少し前の俗に言う「お笑い」は根底に「いじり→いじめ根性」があって好きではなかった。庶民文化から発生した「落語」や最近の「人を傷つけない笑い」は対象となった身に覚えのある「本人」ですら笑ってしまうので生きる力に成るのだと思う。ただ、私の父方の祖父は本名が「与太郎」だったので何かとからかわれた様だった。

ミルクボーイ、ぺこぱ…「人を傷つけない笑い」を日本人が求めるワケ
その答えは「落語」にあった
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69913

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