相手を慮る気持ちがあるかないかだ。

『書きたい。書かねば、自分は何も書けなくなってしまう。でも加害者の反応が怖い。2回目の逮捕を目標に、ひとりで加害者と闘いながら逡巡していたときに、ストーキングが依存症の一種、精神の病態であることを書いた本と出会う。すべてが腑に落ちた。加害者との異常なやりとり、話が全然通じない様子のなにもかもが、精神の病態というのならば、納得できる。そして病気ならば、治療をすればいいのだ。幸いにして治療方法も認知行動療法、条件反射制御法と、2つも存在し、どちらもまだ少ないながらも加害者治療に効果を発揮しているという。~でもしかし。これまで警察も検察も、そして弁護士たちも、だれひとりストーカーへの治療のちの字も口にしなかったんだが。これは一体どういうことなのか。嫌な予感は、2回目の逮捕後に的中する。治療できることをだれも知らないし、被害者から加害者を治療させたいと望んでも、現行の法制度では「ありえないこと」になってしまうのだ。私が処罰と治療の両方を求めたことが、警察にも検察にもどうしても理解してもらえなかった。被害者にとって、加害者が「治る」ことは即ち再犯される危険を取り除く安全保障に他ならないのに、なぜか加害者を思いやっているかのように受け取られてしまう。なぜか。なぜそんなことになってしまうのか。つまるところ、被害者がどんな思いをしているのか、どれだけの不安を抱えて生きているのか、誰も知らないからだ。まずは、一部のストーカーは依存症の一種、つまり善悪の判断はつくので処罰の対象になるけれども、行動を制御できないという病気であり治療が必要であるということを、世間に広く知ってもらう必要がある。ただ罰するだけでは再犯は防げないこと、そして被害者がそのためにいかに苦しい思いを延々と強いられるのかも。~もしこれらの制度がなかったら、自分はさらに危険にさらされ、不安にさいなまれていたと思う。ありがたい。けれどもこれらの制度が導入された経緯を考えると、胸が詰まる。過去に犠牲になった被害者の方々がいたと推察できるからだ。命を落とした方もいらしたはず。どれだけ恐ろしく無念だったことだろう。書類にサインをするたびに、涙がでてきた。そして制度さえ整えば、公的機関はしっかり動いてくださるのだということも、思い知らされた。』

「昔、純愛、今、ストーカー」などと揶揄した表現もあるが純愛とストーキングの絶対的な違いは相手を慮る気持ちがあるかないかだ。自己の欲望や代償の為に好意をもった相手を苦しませる事がどうして愛と呼べるだろう。ストーキングは精神疾患だと認識すべき時期に来ている。

ストーカーは「病気」。罰するだけでは防げない
700日の闘いを経て気づいたこと
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65707

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