何かの所為にして乗り切るしか方法が無いからだ。

『それでは、近代日本は、そもそもどういう出発点を持っていたのか。明治維新までは、300諸侯とその里山いう個別の領邦があり、その集合体としての連邦国家があった。その連邦国家であったところに黒船が来て、一気に日本全体が一体化した国民国家の空間に移行する。社会も、維新までは各藩ごとに、さらに武士、町人、農民など、身分や職種により縦割りで分かれており、それぞれ、上級から下級まで分けられ、要するに小さな分断されたグループがいっぱい存在していた。いっぱいあるだけで全員が議論する広場という空間はまだ存在しなかった。つまり維新後、一君万民の均質空間に見合った社会というものが日本にはなかった。福沢諭吉が「政府ありて、ネイション(国民)なし」、つまり国民はいないと指摘した。国民をどう作るか。そこで福沢は欧米にある「society」を「人間交際」と翻訳し、そこで、ある種、百家争鳴のような「公論」をわき起こしていかなければ、国民は生まれない、と主張した。一方、伊藤博文はヨーロッパに行って、憲法をどうやって作るかを調べたとき、ドイツの法学者シュタインに相談したところ、「君の国は未成熟だから、百家争鳴を行っていると、内乱になってしまう。まず官僚機構を整備して、急いで物事を決めていかなければならない」と指摘された。議論している暇などないよ、と。だから、「議会を作るなら作った方がいいけれども、それは非常に制限されたものであるべきだ。重要な政策は官僚機構が作り、勅命で決めればいい」とアドバイスされてできたのが明治憲法だった。実際に、開発独裁というものはそういうものだ。危機を乗り切っていくには間違いではなかった。ここにはリアルな厳しさがあったと思う。~そのため、公を担っているのは官僚だけで、戦前も官僚主権国家だったが、戦後もずっと変わらずに来てしまっている。戦後、GHQがそれを変えようとした。国会の建物の両脇に、両院の法制局を作った。ところがスタッフが少ない。結局、議員立法はたまには通るが、圧倒的に官僚が作成した政府提出法案が成立していくことになる。ここでは官僚機構は、行政とシンクタンクを兼ねている。そして新聞は発表ジャーナリズムのまま、会社(サラリーマン)メディアのまま、官僚機構に対して何の力もないままだった。~ところが日本は、官僚が家長であって、文学は放蕩息子であるという図式は、ずっと続いてきていて、これはひっくり返ることがない。アフターコロナのビジョンのような構想力は、やっぱり文化が担わなければならない。しかし、日本の場合、ヨーロッパとは異なり、小説やメディアなど、文化の側がおよそ「公」を担う意識も力量も持たずに来てしまっているのである。とはいうものの、事態はもはや批判だけをしていればよいといったものではないのである。実際のところ、政治家も官僚も新型コロナウイルス感染に対しても、硬直化したまま膨れ上がる医療・介護予算に対しても、どうしてよいかわからないのだ。そして、社会全体をどうしていくべきかという構想力を生み出す背景が、日本という国は未熟なままなのだ。だから、あらためて「公」とが何か、と今回、歴史を遡って問題提起を試みたのである。』

公というモノをきちんと理解するには私としての自分を認めなければならないがヒノモトに土着したヒトビトの心根はなかなか変われない。なぜなら人間社会としては理不尽である自然災害の多いこの列島では何かの所為にして乗り切るしか方法が無いからだ。

日本の対コロナ構想力の貧困は「公」なきメディア・文学に原因がある
政治も官僚機構も茫然とし続ける中で
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74587

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