「わからないから、危険」「可能性はゼロではない」

「わからないから、危険」「可能性はゼロではない」...

2011年の震災に伴う原発事故後に、たびたび繰り返されてきた言葉です。

実際のところ、この手のトリックは震災以前から、農薬や遺伝子組換え、食品、医療、電磁波等の分野において近代科学批判や資本主義批判の常套句として頻繁に用いられてきました。

なぜ、こういったトンデモ論理を真に受けちゃう人達が一定数いるのでしょう?

もし、

「わからないから、私は綾瀬はるかと結婚する」「私が堀北真希と結婚する可能性はゼロではない」

なんて言う人がいたとして、そんな妄想を真に受けるでしょうか?
そんな妄想を信じる人がいたら、単なるアタマのおかしい人でしょう?

「わからないから、危険」、「可能性はゼロではない」...なんて話は、情報量としてはゼロです。

「あなたの家に隕石が降ってくるかどうかわからないから、危険」と言われたら、あなたは避難しますか?「外にいると交通事故に遭う可能性ゼロではない」から、あなたは家に引きこもりますか?

確かに隕石が降ってくる可能性や交通事故に遭う可能性はゼロではありませんが、「実際に起こる可能性は非常に低い」ことはわかっているのです。

世の中には「完全にわかっていること」、「可能性が100%のこと」は、ありません。実は今まであなたの生きてきた世界は仮想現実で全ては虚構かもしれません。
一方、「全くわからない」、「可能性がゼロ」のものも、ありません。

私たちは知らず知らずのうちに、おおよその可能性の範囲を推察して物事を判断しています。

新しい事象に遭遇した時に、「わからないから、危険」、「可能性はゼロではない」...と、まず保守的にそのような態度を採用し判断することを間違っているとは言えないでしょう。
しかし、実際にデータや文献を当たってみると、「わかっているのはこの範囲」、「危険性はわかっているこの範囲よりもはるかに低い」、「可能性はゼロではないけれど、◯%よりも低い」、「他のリスクと比較して、はるかに低い」といったことは、わかっているケースがほとんどです。

例えば、放射線による健康被害の場合、キューリー夫人の時代から放射線科学黎明期における研究者の被曝、原子力爆弾の開発および実験時における兵士の被曝、広島や長崎およびビキニ湾における被曝、チェルノブイリやスリーマイル事故を含む原子力発電所の事故による被曝等の多くのデータがあり、過去の知見から「どの程度の被曝であれば、どの程度危険」ということはおよそわかっています。

それにも関わらず、いつまでも思考停止して「わからないから、危険」「可能性はゼロではない」と主張するのでは、「わからないのは勉強をしていないだけ」と批判されても仕方がないでしょう。

食品添加物や農薬、遺伝子組換え食品、医療批判についても同様に、調べられていることやわかっている知見は多くあります。「量」や「程度」の情報を欠いて「わからないから危険」「健康に影響を与える可能性はゼロではない」と主張する危険情報には惑わされないようにしたいものです。

P. S.
一般的に「可能性はゼロではない」と聞かされた場合、「可能性はほとんどゼロに近い」「実際にはほぼあり得ない」と解釈して問題ないケースがほとんどです。そういった稀なケースを心配する暇があれば、もっと大事なことを心配しましょう。

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