#アスリートファーストか?     #ハラスメント問題の本質

 今年になって、スポーツ界ではさまざまなハラスメントや不祥事が表に出てきました。一番新しいところでは女子体操の18歳の宮川選手自身が体操協会のハラスメントについて訴えました。今年になってこのように噴出してきたわけですが、これらは今年になって起きたわけではないでしょう。今までは、問題にならなかった、または問題にすることができず、我慢を強いられていたものが、表に出る機運が生じてきたということなのでしょう。
 これらの問題について私なりに考えてみたいと思います。

 問題になっている事案を解決したり、停滞している事態を展開して新しい展望を切り拓くために使われる言葉に、「〇〇 #ファースト  」という言葉があります。この「〇〇ファースト」を聞いて思い出すのは、アメリカを中心として続いてきた黒人差別に対して黒人が叫びをあげた「 #ブラックイズビューティフル  」という言葉です。
 アメリカにおける人種差別反対運動は、1950年代からマーティン・ルーサー・キング牧師などの指導者の活動を中心に広がりを続け、大きなうねりとなっていきました。63年ワシントン大行進を経て #公民権法  が成立し、さらに実質上の人種差別の解消を求めて運動は続いていくわけですが、その中で、白人上位の価値観そのものに対する対抗的価値観として、「黒人の力強さと尊厳を表現する」というマルコムXとかブラックパンサーなどのラディカルな運動も生まれました。「ブラック イズ ビューティフル」とは、その白人上位の価値観に対抗する黒人上位の価値観の表現です。この運動は選挙立候補などの社会的運動へと次第に穏健化していきますが、#上下の固定した価値観 を変えるには、その上下を逆転する主張が必要だという考えから生まれた言葉です。

 「〇〇ファースト」とは、その〇〇が下位に置かれているその異常な状況を打開するために、その上下の価値観あるいは階層を逆転して考える必要がある!という主張です。「都民ファースト」とは、都民が主役であるはずなのに都民の生活や利便性がないがしろにされている状況を打開する必要があるという主張です。「#アスリートファースト 」とは、アスリートがまるで▢▢協会、△△連盟あるいは学校への奉仕の道具でしかないような実態に対してぎりぎりのせっぱつまった声だと言えるかもしれません。その構図は、アメリカの #公民権運動  の構図と似ています。つまり、差別に対する逆差別としての価値的表現です。それほどひどい現状があるから「〇〇ファースト」という言葉が使われるわけです。

 しかし、どこかに落ち着かなさを感じるのはどうしてでしょうか。それは「〇〇ファースト」は、あくまで #対抗的価値観  であって、終着的価値観ではないからだと思います。錦の御旗として、「〇〇ファースト」と言ったらもう何も言えねえだろう!みたいなのはそれは違うわけです。もちろん、錦の御旗として発言されているわけではありません。大事なのは、対抗的価値観というのは、今まで△△が第一にされてきたことに対し、今度からは〇〇を第一に考えますよ!ということであって、あくまで、一つのものさしの上下を入れ替えたものであるということです。公民権運動もそうです。目標は、公民権を誰でも平等に手にすることであり、「ブラック イズ ビューティフル」というのは、白人優位社会に対する黒人優位とするアンチテーゼであるわけです。白人優位社会がいいわけはない。しかし、それを逆転したアフリカ系黒人優位社会がいいというわけでもないはずです。それなら、他の有色人種はどうなんだ、アジア人ならどうなんだということになります。だから、「ブラック イズ ビューティフル」も「〇〇ファースト」も、あくまでそれは現状打破のための過渡期的な言説です。

 「 #株式会社は誰のものか  」という質問に対する答えは、それは「 #株主  のものだ」です。それが #資本主義  というものの仕組みです。しかし、それは、世界各国の歴史、文化によって微妙に会社というものに対する評価受け止めは違うでしょう。例えば日本だったら、親方日の丸のような受け止め方が会社に対してもあり、そのような忠誠心が社員にはありました。ですから、日本で、「株式会社は株主のものだ」という言説を耳にすると、違和感を感じるのでしょう。「資本」に対する「市民」のありかたの歴史が違うからです。
 しかし、資本主義というものは、#グローバルスタンダード で動いていますから、やはり、株式会社は株主のものだというのは、それが資本主義のメカニズムですから動かしがたい事実です。
 しかし、それでは、経済は原理・原則の通りに動くかというと、#リーマンショック でもわかりますように、いくら、「限りなくゼロに近いリスクは、ゼロとみなしてよい」と言われても、心理的には抵抗があるわけです。いくらゼロに近くてもリスクはあるという心理的抵抗を取り除くことはできないわけです。それが、新自由主義経済の行き詰まり(全面的にというわけではありませんが)、あるいは破綻と恐慌を世界中にもたらしたわけです。
 そこで、#ステークホルダー(利害関係者) すべてのものである、という考え方が出てきました。例えば、社長などの経営者、社員、取引相手、納入業者、下請け会社、消費者等々、すべての利害関係者のものだという考え、言い方です。すべてのステークホルダーは、そこに大なり小なり生活がかかっており依存しているわけですから、その関係性をもって、すべての人のものだとも言えるわけです。

 同じ伝で、「楽曲は誰のものか」。答えは「作曲者のものである」です。それが、近代の考え方です。しかし、演奏者がいなければ、譜面は音になりません。また、会場のスタッフはじめ演奏できるように準備する人がいなければ成り立ちません。そしてまた、聴衆がいてその反応があってこそ、作曲者(現代音楽の場合)や演奏家は喜びを感じ、音楽の世界の素晴らしさに浸ることもできるわけです。
 「楽曲は誰のものか」あるいはもっと広げて「#音楽は誰のものか 」という問いに対する答えは、「音楽はそれにかかわるすべての人のものである」ということになります。つまりここでも「ステークホルダー」という考えが現れるわけで、そういう考え方から生まれた言葉が、「 #ミュージッキング  」です。音楽は、作曲者のものであり、演奏者のものであり、また、聴衆のものでもあるわけです。

 ここで、最初の話題にもどります。「#スポーツは誰のものか 」。その答えは「そのスポーツに関わるすべての人のものである」です。「アスリートファースト」は、アスリートがあまりにないがしろにされた現状に対する #アンチテーゼ  です。アスリートも、さまざまなスタッフがいなければプレーできません。スタッフもそのスポーツを愛するステークホルダーです。また、観客がいなければ、プレーヤーだってそこに喜びを感じることはできないでしょうし、またルールだって生まれないのではないでしょうか。
 例えば、相撲で、そこに協会の人も観客もいなければどうなるでしょう。二人だけでどちらが強いか決めるとすると、それはもう相撲ではなくなるかもしれません。殴ってもいいじゃないか、蹴ってもどうしてそれが悪いんだということになるでしょう。観客がいるからこそ、一定のルールに基づいた「相撲」という競技が成り立つわけです。勝負に勝って観客が沸くからこそ、相撲取りもそこにやりがいを感じるわけです。「お客様は神様です」と言います。しかし、相撲取りがいるからこそ観客はそこに喜びを感じることができるわけです。となれば、相撲だって、「すべての関係者のものである」ということが言えるわけです。
 観客が上だ、プレーヤーが上だ、あるいは協会が上だというような上下関係の価値観で階層をつくるところにあらゆる問題が生まれてきます。そこには、そこに関わる他の利害関係者に対する #リスペクト  がありません。

 学校もそうです。生徒に対する一人の人間としてリスペクトのないところに、体罰などのハラスメントが生まれ、逆に教師へのリスペクトのないところに対教師暴力などの校内暴力が発生したり、そもそも学習活動自体が成り立たなくなったりします。教育においても「生徒ファースト」という考えは有効です。同時に自分が学ぶことができるのはすべての関係者のおかげであるという感謝の念を忘れてはいけないでしょう。ですから、「〇〇ファースト」という過渡期を乗り越え、互いが互いをリスペクトするという関係を創造することが大切なのではないでしょうか。

 スポーツの世界が、スポーツはスポーツに関わるすべての人のものであることを忘れず、互いが互いをリスペクトできるような関係性のもとに再構築されることを願います。そのような風通しのよい社会が創造されるように願っています。
                          元高校教師 

 


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