「細川興秋の生涯」略伝について

細川興秋略伝                                                                     髙田重孝

細川興秋というキリシタン武将が生きた戦国時代は歴史上激動の変革の時代だった。
祖父・明智光秀の「本能寺の変」
1582年(天正10)6月2日、興秋の祖父である明智十兵衛光秀が「本能寺の変」を起こして当時の最高権力者織田信長を殺害した。信長の「服従かそれとも殲滅か」の政策に異議を唱えて、信長の暴君化した軍事政策を止めるために明智総家が犠牲となっても信長の残忍な軍事行動を阻止するため光秀は遭えて謀反を起こした。明智光秀は盟友細川藤孝・忠興父子に援軍を求めたが拒絶されている。孤立無援の明智光秀は「本能寺の変」の11日後、山崎の戦いで羽柴秀吉軍と戦い大敗して坂本城へ逃げかえる途中小栗栖に於いて土民に襲われ自害した。6月15日、坂本城に於いて明智秀満(弥平次)は残された明智家の身内を刺殺した上で自害している。ただ一人、幼い帥(そつ・三宅藤兵衛重利)だけが助かっている。三宅藤兵衛重利は明智光秀の姉の子である明智左馬之助と明智光秀の次女との間に生まれた。幼名を「そつ(帥)与平次」と言い、明智光慶の家臣・三宅六郎が懐に抱いて京都へ逃れ、明智家の御用商人であった大文字屋に預けて養育された。明智光秀は本当に織田信長に代わって天下人になることを望んだのか、真相は謎のまま歴史は次の舞台へ動いている。歴史は勝者により作られるため、明智光秀は歴史の中で謀反人とされた。

玉の三戸野幽閉と興秋の誕生
明智十兵衛光秀の三女・玉は細川忠興の正室になっていた。しかし明智光秀の三女であるという理由で玉は丹後半島の僻地三戸野へ幽閉された。居城である宮津城には長女長、嫡男忠隆を残していた。玉の父・明智光秀の謀反により細川家での幸せな生活から一転して幽閉隠蔽させられた三戸野での生活は、玉にはすべての幸せが奪われ崩れたように思われたが、玉は失望して諦めることも黙して自分を慰めることもしていない。玉はひとり孤独の中にあって自らの生きる意味を模索して葛藤した。1583年(天正11)、興秋は三戸野で誕生している。玉の孤高の心を支えたのは生まれた興秋の幼い命だった。2年後の1585年(天正13)、天下人になった豊臣秀吉より許しを得て、玉は宮津城へ戻り、秀吉の命令で築かれた大坂玉造の細川邸での人質生活が始まった。

母玉のキリスト教への改宗と興秋の受洗
1587年(天正15)、以前より信仰していた禅宗の思想の中に心の平安を見出せなかった玉は、忠興を通して髙山右近より聞いていたキリスト教に非常に興味を抱き、生涯で一度だけ大坂の教会を訪れた。教会を訪問した時は復活祭で教会は美しく飾られていた。教会では修道士コスメ高井と熱心な宗教問答をしている。後日、修道士は「これほど明晰且つ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と称賛を述べている。いかに玉が宗教に対して聡明な理解力と洞察力を持っていたかを示す言葉である。細川邸から外出が許されない玉は、自分に仕える侍女たち17人を先にキリシタンにすることにより、侍女たちを通して教理を深く学んでいった。玉は禅問答と同じ手法でキリスト教理を学び、キリスト教の思想(教理理解)を構築していった。思想を構築することは信仰を構築することと同じであることを玉は深く理解していた。深い理解のもとに構築された信仰は命を賭けて守るべき信仰へと成長した。最終的に司祭に代わり侍女清原マリアより洗礼を授けられ「ガラシャ」(伽羅奢)となった。受洗後も熱心に教理を学び、ガラシャは増々信仰を深めていった。

同年、母ガラシャの深い愛情と影響と薫陶を受けて育っていた興秋(4歳)は大病を患い命の灯が消えかかった時に、母ガラシャの願いにより洗礼を授けられ洗礼名「ジョアン」と名付けられた。洗礼者聖ヨハネに因む名前である。興秋が洗礼を授けられた時、兄忠隆(7歳)も洗礼を授けられている。

また興秋は12歳の時にキリシタンである叔父興元の養子となり、真摯なキリシタン教育の影響のもと成長した興秋はキリシタン武将として信仰を持って雄々しく生きた。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに興秋(17歳)は兄忠隆(20歳)、養父興元と共に初陣している。

忠興のキリシタン排除政策
細川忠興の細川家存続のために身内のキリシタンたちはキリシタン排除政策の犠牲となり家督を剥奪された。忠興は最初に妻ガラシャをキリシタンゆえに細川家より排除している。妻ガラシャの排除は敵方(西軍)の石田三成の人質収監政策を拒否して自害に追い込み殺害している。ガラシャの排除は関ケ原の戦い前の忠興と三成との派遣争いを利用して巧妙に計算された策略だった。ガラシャの信仰は大名の間でもキリシタンとしてあまりにも高名なために一番先に細川家より排除された。

次に豊前の国への移封前、1600年(慶長5)12月、嫡子忠隆がキリシタンゆえに廃嫡され、祖父幽斎(藤孝)の援助を受け京都でキリシタンとして生きている。

豊前の国へ移封された一年後、養父興元(忠興の実弟)が1601年(慶長6)12月、キリシタンゆえに小倉城より出奔している。家督相続の争いを避けるために興元は自ら細川家を出た。

細川興秋が城主を務めた中津城・大分県観光協会提供

興秋の中津城時代
興秋は中津城時代(1602~1604年)細川家の嫡子として認められていた。興秋は真摯で真面目なキリシタンであるのでその姿勢は政策に反映され特に下毛郡の奉行を任されていたキリシタン武将で家老の加賀山隼人正興良と共に農地改革、石高向上政策に邁進している。下毛郡の14人の庄屋の内12人の庄屋がキリシタンになり、キリシタンになった庄屋のもと、農民による信徒組織(コンフラリア)が作られ伝道活動は非常に活発になった。

キリシタンになった人々は相互扶助活動を通してキリシタンの生き方、奉仕活動における無私無欲の働きかけをした。その奉仕の姿を見た異教徒たちはその姿に影響を受け多くの人々がキリシタンになった。この時代の社会で異教徒たちを入信に導いた一番効果的な方法は、キリストに仕えるように人々に仕える名もなき信者たちの姿、言葉無き宣教だった。 

1604年(慶長9)8月、父忠興は強引に三男忠利へ家督相続を決定し、それに従い興秋は江戸へ人質として送られることが決められた。興秋は忠興のキリシタン排除政策のために嫡子の座を奪われた。興秋には父忠興の決定を覆すことはできなかったので、この時は加賀山隼人正興良の進言を聞き入れ父忠興と争うことなく京へ向かっている。京に於いて秘密裏に養父興元と相談の結果、翌1605年(慶長10)正月2日、養父興元の手引きにより京都建仁寺塔頭十如院から出家出奔した。その後、養父興元と共に興秋は真摯にキリシタンとして信仰に生きた。京都にいるキリシタンの養父興元、忠隆、興秋の経済的支援は祖父幽斎(藤孝)がしている。

興秋の京都時代
京都時代(1605~1615年)の10年間の前期、1605年(慶長10)に従兄弟の三宅藤兵衛重利の紹介で寺沢家家老・関主水(立家彦之進・天草佐伊津城主)の娘(側室)と結婚、嫡子「与吉(興吉)」(後の興季)が誕生している。

細川家から細川家から正室の婚姻の話が来た時点で、興秋はキリシタン故に2つの家庭を持つことが許されない事、また母ガラシャが、父忠興が5人の側室を持っていることを嫌がっていたことを知っていたので、家臣中村半太夫に託して関主水の娘(側室)と嫡子「与吉(興吉)」を郷里天草の佐伊津へ戻している。また父忠興の命令で1610年(慶長15)頃、氏家宗入の娘と結婚、翌1611年(慶長16)8月6日、愛娘鍋が誕生している。しかし興秋の幸せな家庭生活は長くは続かなかった。

興秋の大坂の陣への参加
1614年(慶長19)10月、大坂の陣の時、武将として豊臣方に加担して素晴らしい武功を何度も挙げている。翌1615年(慶長20)5月10日、大坂城は落城して豊臣の世は秀吉の辞世の句の如く儚くも『露と落ち霜と消え』ていった。大坂城落城の時、興秋の護衛を任されていた米田監物是季と共に小隊を組織して池田武蔵守利隆の持ち場を見事に撃破して突破、京伏見へ落ちていった。興秋は重臣松井家の寺伏見稲荷の東林院に身を潜めた。米田監物是季は京を通り越し坂本の西教寺に保護を求め潜伏した。西教寺は興秋の祖父・明智光秀の菩提寺である。

しかし興秋は敗戦の責任を取らされ父忠興により切腹を命じられ同年6月6日、伏見稲荷山東林院で切腹した。これにより興秋の細川家での公式の記録は無くなった。興秋の名前は歴史の表舞台の中から消されてしまった。

豊前国香春町採銅所「不可思議寺」での人質生活
1610年(慶長15)、キリシタンを棄教しない興秋を匿うために創建していた豊前国香春町採銅所の「不可思議山不可思議寺」が切腹後の興秋の隠蔽先になった。1615年(慶長20)6月の内に、京都より豊前国香春町へ密かに船で連れてこられた。

香春町採銅所 不可思議寺・細川興秋が第2代住職を18年間務めた

隠蔽先の「不可思議寺」では同じキリシタンとして家財没収の憂き目に遭い監禁されている小笠原玄也一家と出会い、また中浦ジュリアン神父との素晴らしい出会いも経験している。

1619年(元和5)10月15日、中津城時代、興秋を支えてくれた細川家の家老・加賀山隼人正興良がキリシタン信仰ゆえに斬首・殉教した。興秋が江戸へ人質として送られる際に、中津城で「起請文」を書いて加賀山隼人正興良へ手渡している。中津城時代、興秋と加賀山隼人正はキリシタンとして共に宣教活動をしていたし、隼人正は興秋の良き理解者として、政策にも参与して下毛郡の奉行としてキリシタン農民を指導していた。

1621年(元和7)5月21日付け・長岡与五郎興秋宛て・細川忠利からの書状・熊本県立美術館所蔵

興秋の脳梗塞
1621年(元和7)、興秋(38歳)は突然の脳梗塞で闘病生活を余儀なくされたが、元徳川家康の主治医である与安法印(片山宗哲)が父忠興、弟忠利により江戸より招かれて治療を受けて全快している。この事は「1621(元和7)年5月21日付けの忠利の書状」に記載されている。

孝之の出奔
1623年(元和7)香春城主孝之が城主を罷免され出奔する。明細は不明。興秋の「不可思議寺」に中浦ジュリアン神父が匿われて本拠として豊前、筑後地方の宣教活動をしているので、中浦ジュリアン神父より孝之は洗礼を受けたと考えられる。興秋は香春城主孝之の力を借りて殉教した加賀山隼人正に相応しい墓碑を建立している。香春町中津原浦松地区に隼人正の墓は現存している。

孝之は兄忠興のキリシタン排除政策のために香春城は没収、孝之は御家騒動を避けるために自ら香春城を出て、京都へ行き忠隆と共に残りの人生を京で過ごしている。藩主忠利より三百人扶持が支給されている。京での忠隆と孝之の生活費は幽斎(藤孝)の持っていた六千石から支給されている。

ウルバーノ・モンテ年代記に書かれた肖像画・写真提供・小佐々学先生

中浦ジュリアン神父への治療
6年後の1627年(寛永4)、興秋のもとへ島原から庇護を求めて来た中浦ジュリアン神父が脳梗塞で闘病生活を余儀なくされた時、興秋は自分の経験から薬を調合して中浦ジュリアン神父を全快させている。興秋の脳梗塞と中浦ジュリアン神父の脳梗塞の治療は偶然に起こりえない神が備えた摂理だった。中浦ジュリアン神父は、興秋が住職をしている「不可思議寺」に匿われ本拠として、豊前小倉地方、香春町周辺、筑後地方、秋月、甘木、久留米周辺のキリシタンを巡回宣教して多くのキリシタンたちにミサを授け慰めている。 

中浦ジュリアン・ウルバーノ・モンテ年代記の肖像画

肥後熊本への移封
1632年(寛永9)12月、細川藩は豊前小倉より肥後熊本へ移封、それに伴い興秋は山鹿郡鹿本庄の「泉福寺」の住職になっている。この肥後への移封時、「不可思議寺」より一時避難した中浦ジュリアン神父は潜伏先の小倉において逮捕され、翌1633年(寛永10)、長崎の桜町の牢屋へ送られ、酷い拷問を受けて、宿主(興秋)や豊前、筑前、筑後のキリシタン組織(小倉や香春町周辺、秋月や甘木周辺)について自白を強制されたが、一言も自白することなく沈黙を守り通して、同年10月21日、長崎西坂において雄々しく殉教した。

天草への避難と「天草の乱」
1635年(寛永12)10月、小笠原玄也一家の穿鑿訴追により山鹿庄の「泉福寺」から天草御領へ避難した。同年12月23日、小笠原玄也一家15人は禅定院に於いて処刑された。興秋生存の事実を隠すために小笠原玄也一家は興秋の身代わりとなった。

処刑の後、米田監物是季から細川藩国家老、長岡佐渡守(松井新太興長)宛て書状(1635年12月24日付け書状)に藩主忠利の命を受け、小笠原玄也一家の処刑を済ませた報告と共に、自分の主人である興秋(52歳)について『親やと御無事ニ御座候』と報告している。このことは「興秋が小笠原玄也一家誅抜事件に巻き込まれず、米田監物是季の手引きにより無事山鹿郡鹿本庄の「泉福寺」より天草のキリシタン寺(御領城内「了宿庵」後の東禅寺)に避難したことを示していて、米田監物是季の書状はもう一つの興秋生存の有力な証拠と言える。天草への渡海の準備は興秋の護衛をしている米田監物是季が全てを整えている。

細川興秋建立の長興寺薬師堂・明治時代の古写真

興秋は天草御領に安らかな隠棲生活を求めてきたが天草は決して平和な土地ではなかった。天草は寺沢藩、島原は松倉藩の統治下で重税にあえぐ島原天草の領民を襲った飢饉と圧政に耐えられなくなった領民は団結して「天草の乱」を起こした。1637年(寛永14)10月に勃発した「天草島原の乱」である。この時興秋には大坂の陣の戦いでの籠城戦の悲惨な苦い敗北の経験があるので、御領周辺の領民に「天草の乱」に加担することが無いように説いている。興秋の御領周辺の住民への「乱への加担拒否の説得」は「神が興秋に与えた使命」だった。天草御領周辺の領民が「天草の乱」に加担していなかったことは、その後の幕府の調査記録にも明瞭に記載されている。この事は興秋が御領周辺の領民に「乱」に加担したら殲滅されることを説いて回ったことと一致する。興秋の大坂の陣の悲惨な敗北の経験から出た誠の説得だった。興秋は「天草の乱」の時期、1637年(寛永14)10月から1638年(寛永15)3月までは戦火を避けるために肥後八代へ避難している。

この「天草の乱」の初戦1637年(寛永14)11月14日、本渡の戦いに於いて大事な従兄弟・天草富岡城代の三宅藤兵衛重利(56歳)が戦死している。三宅藤兵衛重利の遺体は佐伊津の庄屋・中村五郎左衛門興季(藤兵衛の甥で興秋の息子興季・キリシタン)が引き取り本渡広瀬の高台に懇ろに埋葬した。

島原・原城本丸を望む・天草丸より
原城遠望・左・三の丸、中央・本丸、右・天草丸、右海上に湯島(談合島)


細川忠利の書いた原城攻撃の様子を描いた絵図・熊本県立美術館所蔵

1638年(寛永15)2月28日、島原原城に籠城した一揆軍は殲滅されキリシタン3万7612人が全員戦死した。中浦ジュリアン神父が司牧指導した天草島原のキリシタン信徒の大半がこの乱の犠牲となった。原城陥落の午後、本丸と蓮池周辺の空堀や空穴に隠れて身を寄せ合っていた非戦闘員の老人、男性、女性、子供達、約2万人近くが、戦闘に参加した各藩の兵士たちに捕えられ三の丸の谷間に於いて全員斬首の刑に処せられ殉教した。

『生捕、分捕る高名は幾千人という数を知らず。右生け捕りの男子女子諸大名の陣々より数百人を召し連れ来れば、三の丸の谷間にて、一々首を刎ねられけり。』『四郎乱物語』7巻386~387頁、2月27日城攻めの事より

原城の戦いの最後の処刑はキリシタンとして信仰のための純粋な殉教となった。原城攻撃の指揮を執っていた松平信綱の嫡子輝綱の『島原天草日記』には『その上、童女に至るまで死を喜び、首を斬られた。それは通常の人間ができることではなく、あの深い信仰の力である。』と殉教の様子を書き残している。松平輝綱著『島原天草日記』続々群書類従 4

興秋の晩年
興秋は「天草の乱」の後4年間、御領の「長興寺薬師堂」の住職としてキリシタン教会の指導者として生きた。同じ御領には大庄屋を拝命した嫡子興季がいて父興秋の面倒を見ていた。「天草の乱」の次の年、1639年(寛永16)頃、鈴木重成は御領城跡地「長興寺薬師堂」の西隣に陣屋(茶屋)を建設してここを拠点として天草の調査にあたっている。この時「長興寺薬師堂」に於いて細川興秋(56歳)に会ったと思われる。鈴木重成の細川興秋に出会ったときの驚きはいかばかりだったろうか。興秋の御領周辺の住民への乱への加担不参加活動を高く評価した鈴木重成は、興秋の存在とキリシタン教会「長興寺」の存在を容認して保護している。

細川興秋所有の薬師如来像・長興寺内・御領芳證寺所蔵

興季の結婚
明確に断定できないが、1641年 (寛永18) 興季に嫡子「五郎太」(後の宗左衛門興茂)が誕生していることが『中村家系図』に記録されているから「五郎太」の誕生の1年前・1640年(寛永17)か、その前の年1639年(寛永16)頃に興季は結婚していることが判る。「天草の乱」の終了した1639年(寛永16)頃は、まだ天草御領地方も戦火の後で荒廃して立て直しが急がれていた時期と考えられるので、おそらく復興の目途が立った1640年頃に結婚したであろう。もちろん父興秋も喜んで息子興季の婚礼に出席した。

藩主・忠利の死去
1641年(寛永18)3月17日 興秋の弟、肥後熊本藩主・細川忠利(55歳)脳卒中のため熊本城にて死去。法名妙解院台雲宗伍。
実弟忠利は兄興秋を生涯にわたって擁護し支え続けている。良き理解者であった弟忠利を失った興秋の心の深い悲しみはいかばかりか、察して余りある。しかし神は興秋の深い悲しみを憐れみ慰めて下さった。

熊本藩主・細川忠利・熊本県立美術館所蔵
細川忠利の御廟・熊本市北岡自然公園内

興季「御領の大庄屋」拝命
同年春頃、興秋の嫡子興季(おきすえ)(推定年齢35歳~31歳)江戸より呼ばれ、天草初代代官鈴木重成の命により御領組みの大庄屋を拝命する。(池田家文書)

興秋の嫡子興季(おきすえ)母の育父中村半太夫の苗字を取り中村五郎左衛門興季と名乗る。父興秋(宗専58歳)は殊の外、嫡子興季の大庄屋就任を喜んだ。興季(中村五郎左門)を始め家僕近隣の者たちが集まり、興季様が大庄屋に指名された事を大喜びしていることを聞かれて、大庄屋を仰せつ付けられたことが、それほど有難く悦ぶことなのか『笑止千万也』と大いにお笑になったと記してある。

初孫「五郎太」の誕生
同年、興季の嫡子「五郎太」誕生(後の宗左衛門興茂)。興秋にとっては初孫の誕生となる。

興秋は初孫「五郎太」を腕に抱いて、神から与えられた心の安らぎと平安を感じた。神が与えてくださった興秋の最晩年に訪れた心穏やかなささやかで幸せな家庭生活だった。

宣教師として興秋は初孫の「五郎太」に幼児洗礼を授けたと考えられる。興秋のその時の心境は、正に老シメオンがキリストを腕に抱いたと同じ心境ではなかっただろうか。

『シメオンの讃歌』
『主よ、今こそ、あなたは御言葉の通りに、この僕を安らかに去らせてくださいます。私の目が今あなたの救いを見たのですから。この救いはあなたが万民の前に御備えになった者で異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光であります。』ルカによる福音書2章29~32節

愛娘・鍋との再会
同年、天草の軍事的要・富岡城は、肥後細川藩預かりとなり、興秋の娘・鍋が嫁いだ南条大膳元信が配置されている。南条大善元信が配置されたことも、細川藩が興秋、興季父子の事を十分に考慮していることを示している。

興秋の愛娘・鍋(30歳)が夫南条大善元信と共に富岡城に来ている。鍋は「長興寺薬師堂」での父興秋の存在を知っていて秘かに訪ねている。興秋にとっても1615年(慶長20)5月以来の26年振りの愛娘・鍋との再会であった。また鍋にとっても、初めて会う腹違いの兄興季(35歳・御領大庄屋)との出会いであった。興秋にとって息子興季、愛娘鍋と共に出会う機会が与えられようとは思いもよらなかった。興秋の最晩年に神が与えて下さった人生最高の幸せな時であった。 

同年9月19日 鈴木重成が天草代官を命じられる(寛政重修諸家譜)

興秋の病死
興秋は1642年(寛永19)6月15日に病死した。享年60歳。
御領城内「長興寺薬師堂」南側に埋葬された。
墓碑銘「長興前住泰月大和尚禅師」 薬師堂の位牌「長興寺殿慈徳宗専大居士」。興秋の葬儀は「了宿庵」(後の東禅寺)の正願和尚(キリシタン)が執り行った。

細川興秋の墓碑・芳證寺墓地内

1645年(正保二)11月15日、鈴木重成が両親の菩提寺として建立した芳證寺が完成した。興秋の建立した「長興寺薬師堂」(キリシタン寺)は芳證寺に吸収され、興秋の指導したキリシタンたちは芳證寺檀家として保護を受けている。御領城跡地にあった陣屋(茶屋)がそのまま再利用され1645年(正保2)、芳證寺として建立されている。鈴木重成の建てた陣屋は、元興秋の住んでいた庫裏である。

天草御領芳證寺本堂

参考文献一覧・古文書・原史料関係
『長岡与五郎宛元和7年5月21日細川忠利書状』熊本県立美術館・後藤是山コレクション
『長岡与五郎直筆・起請文 慶長9(1604)年11月16日付』松井文庫所蔵『長興寺薬師如来縁起』(興秋直筆の答弁書) (芳證寺文書)
『芳證寺寺領証文』鈴木重成(直筆)が興秋に対して発給した「長興寺薬師堂」証文
『池田家文書』天草河浦町一町田 池田裕之氏所蔵、1802年(享和2)壬戌六月十五日付け古文書、『旧御領組大庄屋 長岡五郎左衛門興就関係系図』(直系子孫系図)
『旧佐伊津庄屋・中村藤衛門関係系図』(次男直系子孫系図)天草市 中村社綱氏所蔵
『東禅寺過去帳・住職過去帳』
『芳證寺過去帳』(芳證寺文書) 天草御領『不可思議山不可思議寺文書』
『永代志』香春町採銅所 現・明善寺所蔵

細川興秋年表「細川興秋の真実」より   髙田重孝
年号 年齢  事項
1578年(天正6) 明智玉、細川忠興と結婚
1579年 (天正7) 長女 長誕生
1580年 (天正8) 長男 忠隆誕生
1582年(天正10) 6月2日、祖父明智十兵衛光秀謀反「本能寺の変」
母玉・丹後の僻地・三戸野に隠棲
1583年 (天正11) 次男 興秋・三戸野に於いて誕生
1586年 (天正14) 3歳三男忠利誕生・大坂へ転移
1587年 (天正15) 4歳玉、大坂の教会を訪問 禅宗よリキリスト教に改宗・洗礼名ガラシャ、興秋大病により受洗。兄忠隆(7歳)も受洗
1588年 (天正16) 5歳次女 多羅誕生
1595年 (文禄4) 12歳興秋 叔父興元の養子となる
1600年 (慶長5) 17歳7月17日・母ガラシャ自害する
兄忠隆(20歳)岐阜城・関ヶ原の戦い
12月、忠隆廃嫡される 丹後より豊前へ移封 39万石に加増される
1601年 (慶長6) 18歳12月、養父興元小倉城より出奔
1602~1604年19~ 21歳興秋・中津城城主となる
加賀山隼人正、下毛郡奉行で興秋を補佐する
1603年(慶長8) 20歳8月29日、姉・長女長(24歳)病死
1604年 (慶長9) 21歳興秋廃嫡される 三男忠利家督相続

京都在京時代 1605年1月~1615年6月6日 10年間
興秋、人質として証文提出・江戸へ向かうが京都建仁寺に留まる
1605年 (慶長10) 22歳1月2日、京都建仁寺塔頭十如院から出家出奔
三宅藤兵衛重利の紹介で天草佐伊津城主関主水(立家彦乃進)の娘と結婚
1606年 (慶長11) 23歳側室に与吉(興吉)誕生
1610年 (慶長15) 27歳側室と与吉を天草佐伊津へ帰す
氏家宗入の娘(正室)と結婚
5月10日、豊前国田川郡香春町採銅所に不可思議寺建立
8月20日、祖父細川幽斎(77歳)死去
1611年 (慶長16) 28歳8月6日、愛娘・鍋誕生
1614年 (慶長19) 31歳10月、大坂冬の陣参戦
1615年 (慶長20) 32歳5月10日、大坂城落城
米田監物是季と共に京伏見へ落ちる
6月6日、伏見稲荷山東林院に於いて切腹

不可思議寺時代(不明期)1615年~1632年12月 18年間 田川郡香春町採銅所
1615年(慶長20) 32歳6月中に豊前国田川郡香春町採銅所の不可思議寺へ隠棲・宗順と号する
1618年 (元和4) 35歳中浦ジュリアン神父(50歳)不可思議寺に興秋を訪ね宿泊する
1619年 (元和5) 36歳10月15日、加賀山隼人正(54歳)小倉に於いて斬首・殉教
1620年 (元和6) 37歳12月、父忠興隠居・三斎宗立と号する 興秋・宗専と号する
1621年 (元和7) 38歳長岡与五郎宛 元和7年5月21日 細川忠利書状・興秋脳梗塞を罹患
1623年 (元和9) 40歳香春岳城主孝之、中浦ジュリアン神父より受洗、加賀山隼人正墓碑建立
12月、孝之(休斎)出奔
1627年(寛永4) 44歳中浦ジェリアン神父脳梗塞罹患 不可思議寺にて療養。以後6年間匿われる

泉福寺時代(不明期)1632年12月~1635年10月頃 肥後山鹿郡鹿本町庄
1632年(寛永9) 49歳12月、細川藩豊前より肥後熊本(54万石)へ移封
興秋、山鹿郡鹿本町庄「泉福寺」へ移住
中浦ジュリアン神父(64歳)小倉で逮捕される 後長崎桜町の牢獄へ護送
1633年(寛永10) 50歳10月21日、中浦ジュリアン神父(65歳)長崎西坂にて処刑・殉教
1635年(寛永12) 52歳7月10日、天草佐伊津在住の側室・死去
10月頃、小笠原玄也穿撃訴追により興秋天草御領へ避難

長興寺薬師堂時代(伝承)1635年10月~1642年6月 8年間
12月23日、小笠原玄也一家15人 熊本禅定院にて斬首・殉教
米田監物是季書状『親やと御無事二御座候』興秋の安否を報告する
1635年(寛永12) 52歳10月頃、小笠原玄也穿撃訴追により鹿本町「泉福寺」より天草御領へ避難
1637年 (寛永14) 54歳興秋、御領組の農民を乱に加担しないように説得する
10月、天草の乱勃発 興秋、乱の間八代へ疎開する
11月14日、三宅藤兵衛重利(56歳)本渡にて戦死
佐伊津庄屋・中村五郎左衛門興季(興秋の嫡子)が本渡広瀬に埋葬する
1638年 (寛永15) 55歳2月28日、原城陥落、キリシタン37,612人が戦死・殉教
1639年 (寛永16) 56歳興秋「長興寺薬師如来縁起」を書く(芳證寺文書)
鈴木重成、御領城跡・長興寺薬師堂西側に陣屋を建設、興秋と面談する
1640年 (寛永17) 57歳嫡子・興季結婚する
1641年 (寛永18) 58歳3月17日、弟忠利 熊本城に於いて脳卒中で死去(55歳)
春頃、興季御領組大庄屋を拝命する
五郎太(興秋の初孫・双子)誕生
愛娘・鍋、父興秋を長興寺薬師堂に訪問
9月19日、鈴木重成、天草代官に任命される
1642年 (寛永19) 59歳6月15日、興秋病死(脳卒中)
了宿庵(後の東禅寺)正願和尚葬儀を行う
興秋墓碑銘「長興前住泰月大和尚禅師」
薬師堂位牌「長興殿慈徳宗専大居士」
1643年(寛永20) 了宿庵(後の東禅寺)正願和尚(83歳)死去
1645年 (正保2) 11月15日、鈴木重成。芳證寺を創建する
12月2日、父・細川忠興(83歳)八代城で死去

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