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neutral003 誰でもない自分


 ニュートラル、「誰でもない自分」を言い換えればまず「無我」がその候補の一番手に浮上してくるだろう。私は大学で印度哲学を専攻し当然深く考えて来た経験を踏まえて書くならば、ニュートラルの「誰でもない自分」と仏道の「無我」のシンクロ率は意外にも高いだろうと思う。日本人の宗教との関わりは、キリスト教の関わり、信仰とは違っている。勿論宗派に所属し、日常的に深く信仰する、或いは修行中の日本の僧侶という階層もあるだろう。が、ニュートラルの「誰でもない自分」での「無我」の無自覚の実践は日常茶飯事であり、小学生でも可能というように日常にどっぷりと浸かっている。
 例えば外国人観光客が困難な状況にあり、それを察知したならば、自分を優先せずに外国人の意向に沿って行動する(空気を読んで)行動出来る。「無我」の修行中は大乗仏教の範囲であっても、多くは自己完結していて、僧院以外の人間関係や別行動には関わりのない完結型な行為・修行を中心に行われるのに対して(勿論寺院には季節の行事や托鉢などで一般人に接するのであるが、その人間関係において無我を悟るなどの突飛な出来事は余程のことがない限り無いだろう)、一般人の親切な行動、それは人間関係に於ける自己ー他者の枠を超えた一つの偶然の出逢いが作り出した状況に於ける一期一会(奇跡)の出来事と言うことができる。枠を超えるとは、「誰でもない自分」により他者と一体化し、親身になって行動を共に出来るということだ。
 修行には少なからず自力本願の要素が消えないのであるが、親切は「他力本願」ならぬ「他者本願」「利他」というものに従っていて「無我」もその瞬間には達成されているに違いない。無我それ自体を目指してはいないのであるが、結果としてそうなってしまう偶然性。利他という甘い誘惑。
 非常に良質な体験であり、得られる喜び、達成感も一入。無意識なる宗教的体験(「誰でも無い自分」は行為に伴う「無我」)であろうと言っていいと思う。親切にされた喜びも大きな経験であろうが、した方もより爽快な気分、時間の充実、ニュートラルの喜びが得られる。修行では無いのでそこで途切れ時間は完結する。一言のお礼で充分過ぎる。利他行にとってはそれで十分にお釣りが来るのである。
 ドイツ人は一階に誰か居るか調べて来てくれという結果を「自分以外誰も居なかった」と答えるのだという。日本人なら単に「誰も居なかった」と答えるであろう。自己同一性とは強固に主語を外さない、つまりニュートラル(曖昧さ)を排除した自意識でもあろう。仏道における修行者もニュートラルという気を抜く時間を持つことは御法度だろう。
 私は江戸時代の武士は管理はすれど何も生産には携わっていないと見なされることには反対で新渡戸稲造も指摘しているとおり彼らは「社会秩序」を生産していたのだと思う。ニュートラルの視点で観るならば、武家以外の人々のニュートラル(安全性)を守る為に修行者の様に心を常に張り詰め、それは自己同一性を持った西洋人をも凌いでいただろうと考えても不思議ではない。万が一の外敵や内乱から民を守るとはニュートラル(モラトリアム)という見え難い秩序を保つことに己れのニュートラルを献上しつつ、7%の人口の侍は利他に生きていた。武士道の権威はそんなところからも生まれていたのだろう。江戸の町に限れば、享保年間で、武家50万人、町人も50万人と、五分五分であった。侍を見習いつつ意気に感じた町人は仁侠(極道ではない、武士道の町人向けの規範)に生きていたという。
(以下引用)
「宗教がない!だとしたら、いったいどうやって道徳を教えるんですか?」……
 封建時代の日本と武士道についての理解なくして、現代日本の道徳観は封印された書物のように謎のままだと考えるに至った。(引用ここまで)(現代語新訳 世界に誇る「日本のこころ 3大名著ーー茶の本 武士道 代表的日本人」kindle より 新渡戸稲造)「武士道」の主旨であるキリスト教にも匹敵する道徳を明治期の日本人は武士道を拠り所にして形成していたのだという、その半分は確かに当たっていただろう、が、武家以外の当時の庶民もニュートラルの発動によって、現代と同じ様に社会秩序を形成していたと考えても不思議ではない。昨今の海外からの渡航者が皆驚くゴミのない駅、道路。順番にきちんと並ぶこと。街中では静かに行動すること。果ては乗合のバスや電車の座席で眠れること。これらは自宅や自室でのニュートラルな快適な状態を屋外でもシームレスに享受できる様、秩序を共同で作ったり保守してゆく行為でもあろう。武家7%に比べれば現在の警察官は少ない。全国で凡そ29万人と少し(0.2〜0.3%)。警視庁(東京都)の警察官は43,566人(令和5年1月1日現在 令和5年度警視庁採用サイト)に過ぎない。それ故海外からの観光客に映る街の光景は、自主的に行われているニュートラル(快適な、心からリラックス出来る空間)の庶民の自発的利他なメンテナンスであり、再生産にも見えるのだろう。プラス家庭や学校で訓練された道徳を加えてもいい(市民意識の高さ)。
 かようなニュートラル絡みの社会秩序維持の循環を想定するならば、新渡戸稲造の「武士道」のキリスト教圏の外国人の問いに対する答えの少なくとも半分は、現在の状況から見て書き換えられて良いのかもしれない。(続く)
 2024/03/22

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