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「美しさ」に関する考察 Vol.2...Matsuya

前回で見たように、「美しさ」の種類を大きく二つに大別するなら、それは「内在美」と「外在美」に分けられるのではないか、というお話をしました。

以下で少し詳しく説明しようと思います。
また、以上で使用している言葉はマツヤによる造語なのですが、文献を参照していて似たような概念があれば、それを借用したり引用してみます。

「内在美」について

あるシチュエーションを考えてみましょう。
あなたは休日に美術館に行きました。
いつもは芸術作品など特にみないけれど、この時は美術オタクの友人に半ば強引に連れられてきたとします。
折角ここまで来たので、あなたは友人の仕草を真似て、ゆっくりと鷹揚とした足取りで、作品の前を通り過ぎては、また別の作品の前では立ち止まったりなど、ゆっくり時間をかけて鑑賞をしました。
そして、あなたと友人は美術館を出て、近くのカフェで感想を言い合うことになります。

このとき、あなたの取るだろう選択肢は4つあるだろうと考えることができます。

① ⚪︎⚪︎の△△という作品が良かった気がする!
② どれか一つに絞ることはできないけれど、なんか来て良かった!
③ なんだろう。なんか全然分からんかった…何が良いかもわかんないし…
④ やっぱり退屈だったじゃん。あれだけ嫌だって言ったのに…

ここでは大まかにポジティブとネガティブに分けてみました。
源河亨(著)『愛とラブソングの哲学』光文社出版の書籍にあるのですが、「感情」というものは、必ずポジティブとネガティブのどちらかの要素を持つものとして分けることができます。「嬉しい」という感情はポジティブだし、「悔しい」という感情はネガティブです。このように、感情は「何かによって引き起こされるもので、それは主体・客体どちらの場合であっても、その存在の気持ちの状態を判定する(決める)ための相互干渉性を保持した概念記号」だと捉えることができます。

あなたは「友人と感想を言い合う」というイベントの中で、感情によって色づけられたエピソードや考えたことを関連づけ、話の中で体系的に自分の言葉でなんとかして表現しようとするのです。

ここまではとりあえず大丈夫だと思います。
では、果たして「内在美」の内在とは、”何の中にあるもの"を指しているのでしょうか。

上の言葉に当てはめるなら、それは、「私たちの心の中にある」ことで、その美しさ(本質)は心の中にある「バラバラなエピソードや考えたことが結びつきあった総体」をその時々の感情に従って「美について語っている」というナラティブな情報の相互出力を行うこと、それが「友人と美しさについて話し合う」という事象を形作っているのです。
ハイデガーは、現存在(簡単にいうと私たちのような人、人間)の環境(世界)に対する関わり方を三つに分けました。そこで彼は「語り」という言葉で、自分の感じたことや思ったことを他の人に話したり、詩や作品(何でも良いですがカタチのあるものとして)などにしてより理解しようとすることを説明しました。
【『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』轟考夫 講談社】

少し長くなりましたが、内在美における「美しさ」を感じるためには、自分と相手、自分と作品のように、そこに「美しさ」を見出そうとする主体が、感情という状況や自身の関係行為における正当性を判定する装置を用いて、客体に帰属する情報を秩序立ててまとめ、それを「美しさ」というベールで隠したままに考え続けることが大事だと思います。

別の言葉で言い換えれば、自分の感じたことが他の人に全て伝わることがないように、「美しさ」はその人の心の中にあるもので、たとえ同じ作品を見たとしても、「美しい」と感じた部分が必ず同じであるということがない、ということです。



一旦此処で区切ろうと思います。
次では外在美について考えてみようと思います。
何か感想や、ここ違うんじゃない?というところがあれば教えていただけたらと思います。

また、まだ十分考えられていないですが、ひとつ、この外在と内在のどちらでもない美のカタチ、「導出美」についても、今後少し触れてられたらなと思います。


参考文献
・『愛とラブソングの哲学』源河亨 光文社出版
・『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』轟考夫 講談社


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