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箸と棒

昨日書いた『清洲次郎の愛のうた』は元になったエピソードがあって、比較的忠実に書いたところ望ましくないという指摘を受け、出来上がったのがこの話だった。元々の話は、演歌歌手が本当の名前であったこと、曲名も実在のものだったので、関係者がエゴサーチしてしまうとどんな影響が起こるか分からない、リスク回避のためだった。

私に注意を促した人は一昨日、「固有名詞はどんどん出した方がいい」とアドバイスをくれた人だった。書きたいことが書けなくなるくらいなら、気にせず書いた方がいい、とも言ってくれた。なので相手はとても申し訳なさそうにしていた。
「こんなくだらないことで手直しさせてごめんね」
「いや、全然。気にしないで。かえってごめんね」
「自分だったらこんなことでダメ出しされるのは嫌だと思う。でも修正したやつも元のクオリティを十分保っていると思うよ。作ってる君は満足しないだろうけど」
「私は何がダメだとか、そういうこと本当に分からないから言ってもらった方がいい。リスクは回避しよう。リスク回避のすれすれのところを行こう。またこういうことは遠からずあると思うから教えてほしい。あれだけ修正すればもう誰のこと書いているかは特定されないかな」
「辿り着かないと思う。大丈夫だと思うよ。俺のことだったらどれだけ書いてもいいんだけどね、他の人のこととなると。本人は切実だろうしね。影響がね。本当にごめん。ただ、逆に可能性も感じたよ。ミュージシャンはみんなエゴサするから、ということは文章を見てもらう機会もあるってことだよね」
「でも例えば今回みたいに、演歌好きの人に読まれても、話のおもしろさは分かってもらえないじゃない? 演歌に興味があって記事を探しているわけだから」
私はハッシュタグに「演歌」と付けることにも意味があるのか分からなくなっていた。
「誰かの目に触れるということが大事なんだよ」
「そうか、じゃあこのまま続けてみよう」
「しかし初っ端からNGになるとはね。なんでそこに行くんかなと思った、それを引き当てる辺りが君らしい、やっぱり違うなあと思った。おもしろいことが起きるなあと思って感心したよ」
相手は肩を揺らして笑っているのでこちらも可笑しくなって
「当てに行ったんじゃないんだけどね。なんでこうなっちゃうんだろうね」
と一連を振り返った。

ますば自分自身や感覚の近しい人たちが読みたいものを書けているかが重要だ。書いて良かった、笑えるなら及第点。気長にやればきっとそのうち誰かが見つけてくれる。中にはおもしろいと思ってくれる人がいるだろう。箸にも棒にもかからないものを書くようになってしまったら、私なんかやめればいい。


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