バレンシアガと書体“Utah”
ビジネスに使えるデザインの話
ビジネスにデザインの知識はけっこう使えます。苦手な人も多いから1つ知るだけでもその分アドバンテージになることもあります。noteは毎日午前7時に更新しています。
映画またはファッションと書体
書体と映画またはファッションとの関係の記事はこちらのマガジンにまとめています。
「バレンシアガ」というブランド
バレンシアガ(BALENCIAGA)は、クリストバル・バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga)が1919年にスペイン、サンセバスチャンで創業したラグジュアリーブランド。拠点はフランス、パリに移り、現在はフランスのケリング*が所有しています。
創業者のクリストバル・バレンシアガ(Cristobal Balanciaga)は、「クチュール界の建築家」とも称されるファッションデザイナーでした。立体裁断や完璧な縫製技術によって生み出された斬新で芸術的なスタイルは、ファッション界に多大な影響を与えました。仕立てや刺繍、羽根飾り、コサージュなど、通常は職人が担当するオートクチュールドレスの制作手順を一から自身の手で手掛けていました。
バレンシアガのバッグは、アイコンバッグとして知られるエディターズバッグ(海外のファッション系の編集者が使い始めたことで人気をえた、肩から掛けられる長さの取っ手と、A4の書類が入る四角い機能性の高い大き目のレザー製のバッグ)「シティ」をはじめ、キャンバス地のトートバッグ「ネイビー」、紙袋のショッパーバッグを模した「ショッピング バッグ」などを展開。
バレンシアガの歴史
創業者のクリストバル・バレンシアガは、1895年、スペインに生まれました。バレンシアガは、母親から仕立てとドレスメイクを習い、独学で裁断と縫製を学びました。パリのスーツをリメイクした服で才能を認められ、マドリードの仕立て屋で修業します。1919年、スペインのサン・セバスティアンに最初のオートクチュールハウスをオープン。
バレンシアガのデザインはスペイン国内で高い評価を受け、2番目のオートクチュールハウスをマドリッドに、3番目をバルセロナにオープン。王室も顧客になるなど、スペインのファッション界をリードする存在になりました。しかしクリストバル・バレンシアガは、スペインの内戦を機にパリへ渡ります。
1937年(42歳)、パリのアベニュー・ジョルジュサンク10番地が、クリストバル・バレンシアガのクリエイションの中心となりました。現在も同じ場所にバレンシアガの旗艦店があります。最初のファッションショーでは、スペインルネッサンス(スペイン・ルネサンスは、14世紀にイタリアで起こったイタリア・ルネサンスに端を発し、15世紀から16世紀にかけてスペインに広まった運動)の影響を強く受けたデザインを披露。『ハーパース・バザー』の編集者であったカーメル・スノウ(Carmel Snow)は、早くから彼のデザインを支持していました。
この時期、バレンシアガは、袖がヨークと一体になった「スクエアコート」や、鮮やかなピンクの生地に黒(または黒と茶)のレースをあしらったデザインで注目されていました。
歴史家たちは、バレンシアガが、ナチスのパリ占領下で活動を続けらたのは、ヒトラーの盟友であったスペインの独裁者フランシスコ・フランコ将軍とのつながりがあったためだと考えています。フランコとバレンシアガの関係は非常に密接で、バレンシアガはフランコ家のために服をデザインしてます。
占領下で営業を許されたのはわずか60社で、バレンシアガの会社はそのうちの1社であり、戦争のためにパリで不足していたスペインからの原材料を継続的に供給することで、バレンシアガは競争上の優位に立ちました。しかし、会社の活動をベルリンに移すというヒトラーの要請は拒否したといわれています(※1)。
バレンシアガのシンプルで完璧なシルエットは高く評価され、パリのエレガンスを体現する存在になっていきます。30年代には、クリスチャン ディオールの「ニュールック」の前身ともいえるスタイル、ウエストシェイプされたワイドスカートのスーツを発表。40年代から50年代にかけては、四角い肩に狭めたウエストラインの服や、ウエストラインを持たない「バレル・ルック」、無駄をそぎ落としたラインの「サック・ドレス」(1955)などを発表した。
特に、1955年に発表したチュニックラインと言われるスタイルはクリスチャン ディオールの「Aライン」とともに話題になりました。上着はロングトルソーで、ややローウエストでウエストは絞らず、肩から背中をゆったりと扱い、全体がストレートなシルエットの「チュニック」はその後のファッション業界のトレンドに大きな影響を与えました。
最初のアトリエの住所がジョルジュサンク・アベニュー10番地でしたので、バレンシアガは、1946年(51歳)に初めて発表した香水を「ル・ディス(Le Dix)」と名付けた。香水は、オートクチュール同様に高い評価を受けました。
1968年(73歳)、クチュールハウスを閉店。
1972年(77歳)、クリストバル・バレンシアガは、生まれ故郷であるスペインにて死去。彼の甥が事業を引き継ぎました。
1978年、ブランドとしてのバレンシアガは、フレグランス事業も含め、いくつかの企業に移譲され、ライセンスビジネスのみでブランドの名前を継続させました。
1986年までは、香水ブランドとして継続された。
1987年、「バレンシアガ」のプレタポルテコレクションがスタート。
1995年、ニコラ・ジェスキエール(Nicolas Ghesquière)がライセンスデザイナーに就任。
その後、1997年には、ジェスキエールは、プレタポルテ及びアクセサリー・コレクションのクリエイティブディレクターに就任。デビューコレクションは、衝撃的な印象を残し、新生バレンシアガをアピール。ジェスキエールは、バレンシアガの伝統的なスタイルを継承し、ウェアだけではなく、バッグ、シューズでも好評を得ました。
2005年、モンクレールとコラボレーションでアシンメトリーなジッパーやミリタリー系の紋章が施されたダウンジャケットなどを披露。
2012年11月、ニコラ・ジェスキエールが、クリエイティブディレクターを辞任。同年12月、アレキサンダー ワンがクリエイティブディレクターに就任。ワンは2015年10月の2016年春夏シーズンまで、クリエイティブディレクターを務めた。
2015年、アレキサンダー ワンの後任として、デムナ・ヴァザリアが新アーティスティックディレクターに抜擢されました。
2017年、バレンシアガがIKEAのフラクタバッグにオマージュをささげるバッグを発売。
2017年、クロックスとコラボレーション。「クロッグ(clog)」をベースにしたプラットフォームサンダル「The “Foam”」を発表。
2018年春夏コレクションにて、初のキッズコレクションがデビュー。
2020年7月、クリストバル・バレンシアガがメゾンを閉じてから52年の月日を経て、オートクチュールを再開。専門チームを作り、歴史的なアドレスであるアベニュー・ジョルジュサンク10番地にて当時のサロンを再現したアトリエを設立。
ニコラ・ジェスキエール(Nicolas Ghesquière)
ニコラ・ジェスキエール(Nicolas Ghesquière)は、2023年現在、ルイ・ヴィトンのレディース アーティスティック・ディレクター。1971年、フランス生まれ。
高校時代からコリンヌ・コブソン、アニエスベー等で経験を積み、高校卒業後、19歳でジャンポール・ゴルチエの元で働き始め、2年間、ゴルチェのニット部門のアシスタントデザイナーとして働く。その後、ティエリー・ミュグレー、ステファン・ケリアン、トラサルディでヘッドデザイナーを務る。
95年頃からフリーランスでバレンシアガのライセンス部門の仕事を手がける。
ジョセフュス・ティミスターが一時バレンシアガのデザインを手がけるの、不評で辞任。その後、ジェスキエールが、わずか26歳で抜擢される。
デビューコレクションの98S/Sは、衝撃的な印象を残し、ブランドが新しく生まれ変わったことをアピール。
ジェスキエールの才能とブランドとしての歴史的価値に目をつけた、PPR傘下(現ケリング)のグッチのグループ(トム フォードとドメニコ・デ・ソーレ)は、2001年、バレンシアガを買収。この買収には、ジェスキエールの才能を評価してのものと見られています。
バレンシアガは、2001年、バックと靴のラインを発表、2002年、メンズラインを発表し展開を広げています。ジェスキエールは「僕は(低迷する)バレンシアガを救ったが、バレンシアガにも(ファッションデザイナーとして)救われた」とコメントを残しています(※6)。
2013年、バレンシアガのデザイナーを辞任。後任には、アレキサンダー ワンが就任。同年、ジェスキエールは、マーク ジェイコブスの後任として、ルイ・ヴィトンのアーティスティック・ディレクターに就任。
アレキサンダー ワン(Alexander Wang)
アレキサンダー ワン(Alexander Wang)は、1984年、アメリカのサンフランシスコにて、台湾系アメリカ人の家系に生まれる。18歳のときにニューヨークに渡り、パーソンズで2年間ファッションを学ぶ。在学中にマーク ジェイコブス、デレク ラム、ヴォーグなどでインターンを経験。
2004年(20際)、卒業前に中退し、自身のブランド「アレキサンダー ワン」をスタート。義理の姉とともに、カシミアのニットを使用したコレクションを3シーズン展開する。家族の絆が強く、家族がブランドに協力している。母は生産ラインと貿易に協力し、アレキサンダー ワンの展開を助けたという(事実、母と義姉は2015年までブランドのチェアマンとCEOをそれぞれ担当していた)。
映画「ワーキングガール」のメラニー・グリフィスと「ナインハーフ」のキム・ベイシンガーを自身のミューズとしているように、女性が徐々に自立していく過程をファッションのテーマの一つとしています。
2007年、ニューヨークコレクションにデビュー。2008年春夏ニューヨークコレクションではメンズシャツのテーラリング技術を応用させ、働く女性のためにシンプルでモダン、清楚でピュアなイメージを打ち出した。そのコレクションは複雑で、シンプルに見えるが、体を包み込むドレープ、レイヤード、ダメージの入ったジーンズ、テーラード、など、ざまざまな要素を組み合わせたもの。
2010年、ニューヨークに世界初の店舗をオープン。2011年、中国の北京にアジア初の店舗をオープン。
アレキサンダー・ワンは、2012年から2015年にかけて、バレンシアガのクリエイティブ・ディレクターを担当。
2013年秋に日本初となる旗艦店を青山にオープン。2015年、イタリアのインテリアブランド「ポルト ローナ・フラウ」とコラボを発表。
2019年春夏シーズンより、「ALEXANDER WANG」から「alexanderwang」へとブランド名を変更。
デムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia)
ジョージア出身のファッションデザイナー。2014年、ファッションブランド「ヴェトモン」を立ち上げ、2020年に同ブランドから退任後、ケリング・グループのブランド「バレンシアガ」のアーティスティック・ディレクターに就任。
バレンシアガのロゴの歴史
最初のエンブレムのひとつは、2つの大文字「B」が左右対称になっているものでした。2つの「B」は、衣服の縫い目のような3本の平行な斜めの線で結ばれています。その下には、黒いサンセリフ体でブランド名。その下には、ファッションハウスの所在地を示す「PARIS」の文字がありました。
バレンシアガの商標を買い取った会社は、トレードマークの「BB」モノグラムを捨て、ブランド名の入ったワードマークだけを使い、フォントを太くしました。
バレンシアガの書体
現在のロゴは、Utah(ユタ)という書体のCondesed Bold(縦長の太い種類)が近いです。こちらがUtha Condensed Bold。
書体名:Utah(ユタ)
カテゴリ:サンセリフ体
ファウンダリー:Monotype
この書体については、あまりよくわからないです。とりあえずMonotypeからリリースされていることだけはわかるのですが。
https://catalog.monotype.com/font/milieu-grotesque/utah/wgl-condensed
ウェブサイトでは、オリジナル書体「BB」を使用
ウェブサイトなどでは、バレンシアガはオリジナル書体「BB」を使用しています。こちらもUtahがベースになっているようです。
ケリング
現在、バレンシアガを所有しているのは、仏のファッションコングロマリット、ケリング(仏 Kering S.A.)。イタリアの高級ブランドであるグッチを中心に、主にヨーロッパのファッション・宝飾品関連のブランドを多数保有しています。
ケリングが所有するブランド
•アレキサンダー・マックイーン
•バレンシアガ
•ボッテガ・ヴェネタ
•ブリオーニ
•グッチ
•サン・ローラン
食器のジノリもケリングが所有しています。
まとめ
実は、バレンシアガのロゴは、「ファッションブランドのロゴがサンセリフ体になっていき、類似化している」という潮流において代表的なものでした。
ご覧の通り、サンローランもバーバリーもベルルッティも皆、太くてわかりやすいロゴに変わっています。この変化の背景には、人々がブランドに触れるメディアの変化があります。それはなにか。スマホです。小さな画面でみて、すぐにそれとわかるようにロゴを変化させてきているんです。
なぜバレンシアガのロゴがこの潮流の代表かというと他ブランドに先んじていたためです。
書体からファッションブランドをみてみても面白い発見がありますね。
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参照
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https://www.modalina.jp/modapedia/w/e382a8e38387e382a3e382bfe383bce382bae383bbe38390e38383e382b0/
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