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日本の伝統的な様式とモダニズムを融合させた多作の建築家 “丹下健三”

『建築と家具のデザイン』マガジン

デザインがメインの #しじみnote ですが、建築と家具に関する記事はこちらのマガジンにまとめていきます。


丹下 健三(たんげ けんぞう)氏

丹下健三氏
Hans van Dijk for Anefo - [1] Dutch National Archives, The Hague, Fotocollectie Algemeen Nederlands Persbureau (ANeFo), 1945-1989, Nummer toegang 2.24.01.05 Bestanddeelnummer 931-7193, CC BY-SA 3.0 nl, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30756195による

丹下 健三(たんげ けんぞう、1913–2005)は、日本の建築家、都市計画家。都市計画家とは、都市の将来あるべき姿(人口、土地利用、主要施設等)を想定し、そのために必要な規制、誘導、整備を行い、都市を適正に発展させようとする専門家です。他国では、ウルバニスト(urbaniste)やアーバンプランナー(Urban planner)などと呼びます。

日本人建築家としてもっとも早く国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、丹下氏は、多くの国家プロジェクトを手がけました。また磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家たちを育成してきました。

1987年にプリツカー賞を受賞。プリツカー賞とは、世間では「建築のノーベル賞」と呼ばれ、わたしだけ「建築海のアカデミー賞」と呼んでいるハイアット財団が運営している建築賞です。この賞に関してはこちらの記事に書いています。


丹下氏は、日本の伝統的な様式とモダニズムを融合させた20世紀を代表する建築家であり、5大陸で主要な建築物を設計しています。20世紀後半に活躍し、東京をはじめ、日本の都市や世界の都市で数多くの特徴的な建築物を生み出してきました。 また丹下氏はメタボリズム運動(Metabolism)の主要な後援者でもありました。

丹下氏は、幼い頃からル・コルビュジエに影響を受け、1949年に広島平和記念公園の設計コンペを落札して国際的に知られるようになりました。1950年代にはCIAM(国際現代建築会議)のメンバーとして活躍。1960年の東京湾計画は、1960年代のチーム10や、メタボリズムと呼ばれるグループに影響を与えました。

大学で都市論を学んだ彼は、第二次世界大戦後の再開発プロジェクトに理想的な立場で臨んだ。東京やスコピエの設計でそのアイデアを発揮した。丹下は、世界中の建築家の世代に影響を与えた。

メタボリズム

メタボリズム(「新陳代謝」という意味)とは、戦後の日本の建築運動で、建築の巨大化と生物の有機的な成長を融合させたものです。1959年のCIAM(国際建築家協会)の会合で初めて国際的に紹介され、丹下健三氏のMITスタジオの学生たちによってその思想が検証されました。

1960年の東京世界デザイン会議に向けて、菊竹清訓、黒川紀章、槇文彦ら若手建築家やデザイナーのグループがメタボリズム宣言の出版を準備した。彼らは、マルクス主義の理論や生物学的プロセスなど、さまざまなソースから影響を受けていました。彼らのマニフェストは、「海洋都市」「宇宙都市」「集団形態へ」「物質と人間」という4つのエッセイからなるシリーズでした。海洋に浮かぶ巨大都市や有機的成長を取り入れたカプセルタワーの設計も含まれていましたた。世界デザイン会議によって、メタボリストたちは国際的な舞台で活躍していきましたが、そのアイデアはほとんど理論的なものにとどまりました。

丹下健三氏の山梨放送会館や黒川氏の中銀カプセルタワーなど、メタボリズムの原理を応用した小規模で個性的な建築物も建設されました。1970年の大阪万博では、丹下氏が会場全体のマスタープランを担当し、菊竹氏と黒川氏がパビリオンを設計するなどし、メタボリストたちの思想の実現がこのイベントにもっとも集中しました。1973年のオイルショック以降、メタボリストは日本からアフリカ、中東へと目を向けていきました。

山梨文化会館 (山日YBSグループ本社)(1966年竣工)
Lover of Romance - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1737227による
東京の中銀カプセルタワーは、建物の中心部に小さな集合住宅(カプセル)が取り付けられています。(1970–1972)
By Kakidai - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=74539999

チーム10

43人の建築家たちが参加したオッテルローミーティング(1959年)
By &lt;a rel=&quot;nofollow&quot; class=&quot;external text&quot; href=&quot;https://www.flickr.com/people/47154409@N06&quot;&gt;Netherlands Architecture Institute (NAI)&lt;/a&gt; - &lt;a rel=&quot;nofollow&quot; class=&quot;external text&quot; href=&quot;https://www.flickr.com/photos/nai_collection/6142993887/&quot;&gt;Congres Team 10 in Otterlo | Team 10 Meeting in Otterlo&lt;/a&gt;, <a href="https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0" title="Creative Commons Attribution-Share Alike 2.0">CC BY-SA 2.0</a>, <a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18321115">Link</a>

チーム10(Team 10,Team X or Team Ten)とは、1953年7月の第9回国際現代建築会議(CIAM)に招待された建築家たちにより結成されたグループ。

丹下健三氏の略史

1913年:大阪府堺市に生まれる。住友銀行社員であった父の転勤によって生後まもなく中国の漢口へ。数年後さらに上海のイギリス租界に移り住む。

1918年(5歳):上海・日本尋常小学校入学。

1920年(7歳):父の出身地である愛媛県今治市に家族で移住。

1926年(13歳):旧制今治中学(現・今治西高校)入学。

1930年(17歳):今治中学四年修了(飛び級)で旧制広島高校(現・広島大学)理科甲類に進学。同校図書室で見た外国雑誌のル・コルビュジエの記事に感銘を受け建築家を志す。ル・コルビュジエを通して一時傾倒していたマルクス主義から実存主義に転向する。

1933年(20歳)〜1934年(21歳):東京帝国大学建築科の受験に2度失敗。徴兵逃れのため日本大学芸術学部映画学科に在籍したがほとんど登校せず、ポール・ヴァレリー、アンドレ・ジッド、マルセル・プルースト、フョードル・ドストエフスキー、ヘーゲル、マルティン・ハイデッガーなどを読み耽り、名曲喫茶で友人と語り合い、バーに出没していた。大学時代、丹下氏は映画に大変興味を持っており、「総合芸術」に取り組んでみようと思っていた(丹下健三『一本の鉛筆から』p.27)。

1935年(22歳):東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築科に入学。

1938年(25歳):東京帝国大学工学部建築科卒業後、前川國男建築事務所に入所。

1941年(28歳):東京帝国大学大学院に入学し、高山英華((たかやま えいか、日本の都市計画家、建築家)の研究室に入る。

1942年(29歳):大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選。

1946年(33歳):東京帝国大学大学院修了後、同大学建築科助教授に就任。いわゆる「丹下研究室」を作る。

1951年(38歳):CIAM(国際近代建築会議)に招かれ、ロンドンで広島計画を発表。初めての日本国外旅行となる。

1958年(45歳):アメリカ合衆国建築家協会(AIA)第1回汎太平洋賞受賞。

1965年(52歳):日本建築学会特別賞(国立屋内総合競技場)。イギリスRIBAゴールドメダル受賞。

1966年(53歳):アメリカ合衆国AIAゴールドメダル受賞。

1970年(57歳):ローマ法王庁大聖グレゴリウス勲章受章。

1973年(60歳):フランス建築アカデミー ゴールドメダル受賞。

1974年(61歳):東京大学を定年退官、名誉教授となる。

1976年(63歳) 西ドイツ政府プール・ル・メリット勲章受章。

1979年(66歳):文化功労者に選出。イタリア共和国功労勲章コンメンダトーレ章受章。

1980年(67歳):文化勲章受章。

1984年(71歳):フランス芸術文化勲章コマンドール章受章。

1986年(73歳):日本建築学会大賞(日本における現代建築の確立と国際的発展への貢献)。

1987年(74歳):アメリカ合衆国プリツカー賞受賞。新日本建築家協会(現在の社団法人日本建築家協会)初代会長に就任(1988年まで)

1993年(80歳):高松宮殿下記念世界文化賞建築部門受賞。

1994年(81歳) 勲一等瑞宝章受章。

1996年(83歳) フランスレジオンドヌール勲章受章。

2005年(91歳) 3月22日死去。贈従三位。


丹下氏の著書


丹下健三氏の建築

丹下氏が設計・デザインした建造物は膨大な数に及び、全て紹介しきれません。そのうちの8つ

をここで紹介していきます。

香川県庁舎東館(1958)

香川県庁舎東館
Nakaful - photographed by Nakamura Yu, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=939001による


東京カテドラル聖マリア大聖堂(1964)

東京カテドラル聖マリア大聖堂
Kakidai - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=52498214による


国立代々木競技場(1964)

第一体育館
Rs1421 - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10543807による


静岡新聞・静岡放送東京支社ビル(1967)

静岡新聞・静岡放送東京支社ビル(1967)
Kakidai - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=53536811による


東京都庁舎(1990)

東京都庁舎第一本庁舎 1991
Wiiii - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7651373による


駐日クウェート大使館(1970)

S23725 - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=93640565による


新宿パークタワー(1994年)

Shinjuku_Park_Tower_7_Desember_2003.jpg: Morioderivative work: 0607crp (talk) - Shinjuku_Park_Tower_7_Desember_2003.jpg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10587835による

フジテレビ本社ビル(1996)

フジテレビ本社ビル(1996)
Kakidai - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=72912003による


まとめ

丹下健三氏の仕事は建築だけでも膨大で、今回ほとんど触れていない都市計画の国内外で多数あります。天才は仕事が多いという印象を持っていますが、しかし丹下氏は東大に2回も落第しており、天才にもそういうことがあるのかぁと小さな安堵も感じます。

丹下氏の建造物は現在でも至るところに存在しており、多くの人がそれと知らずに訪れたり、宿泊したりしているかもしれません。たとえば、パークハイアット東京は、丹下氏が設計した新宿パークタワーのなかにあります。

わたしも時間が許す限り、彼の作品を散策しながら訪れてみたいと思っています。

丹下健三氏の自宅(1953)
By Unknown author - SHINKENTIKU Vol.30 JANUARY 1955(新建築 1955年1月号), Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3255432


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参照



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