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モダニズムに温もりを与えた、フィンランドの“アルヴァ&アイノ・アアルト”

『建築と家具のデザイン』マガジン

デザインがメインの #しじみnote ですが、建築と家具に関する記事はこちらのマガジンにまとめていきます。


フィンランドの建築家、デザイナー、アルヴァ・アアルト

アルヴァ・アアルト氏(1960)
不明 - http://4.bp.blogspot.com/-m01r5aY7syA/Tb-AgQBJJAI/AAAAAAAARMs/Rwe_vv-h4hs/s1600/alvar_aalto.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18906987による

生没:1898–1976
国:フィンランド

アルヴァ・アアルト(Alvar Aalto、1898–1976)は、フィンランドの建築家、都市計画家、デザイナー。アアルト氏の活動は建築から家具、ガラス食器などの日用品のデザイン、絵画までと多岐にわたります。本名はフーゴ・アルヴァ・ヘンリク・アアルト(Hugo Alvar Henrik Aalto)。北欧の近代建築家のなかで代表的な存在。モダニズムに対する人間的なアプローチで知られています。ユーロ導入まで使用されていた50フィンランド・マルッカ紙幣に肖像が描かれていました。

アアルト氏は、自らを芸術家とはみなさず、絵画や彫刻を「建築を幹とする木の枝」とみなしていました。1920年代から1970年代までのアアルト氏のスタイルは、初期の北欧古典主義(Nordic Classicism)から、1930年代の合理的な国際様式モダニズム(Nordic Classicism)、1940年代以降のより有機的なモダニズムのスタイルにへと変化しています。

総合芸術

アアルト氏の作品は、最初の妻アイノ・アアルト(Aino Aalto)氏とともに、建物だけでなく、家具、ランプ、ガラス製品などのインテリアなども含んでおり、結果多岐にわたったというよりは意図的にドメイン(自分の領域)を広げたものでした。なぜならアアルト氏は、Gesamtkunstwerkという総合芸術を意識していたからです。スタイルは変化すれど、この総合芸術を意識した姿勢は生涯一環していました。

スカンジナビアン・モダン

アアルト氏の家具デザインはスカンジナビアンモダン(Scandinavian Modern)と呼ばれ、その美学はエレガントな単純化と素材、特に木材へのこだわりに反映されていますが、同時に技術革新も含んでおり、曲げ木の製造方法など様々な製造工程で特許を取得しています。デザイナーとしては、ミッドセンチュリーモダニズムの先駆者として称えられ、彼の発明した曲げ木家具は、チャールズ&レイ・イームズジョージ・ネルソンに大きな影響を及ぼしました。アアルト氏自身が設計したアルヴァ・アアルト美術館は、彼の故郷とされるユヴァスキュラ(Jyväskylä)にあります。

アルヴァ・アアルト美術館
By A333 - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9429327

ニューヨーク近代美術館(MOMA)のウェブサイトでは、アアルト氏の作品について「ロマンティックと実用の驚くべき統合」が記されています。また次のように付け加えられています。

アアルト氏の作品は、合理的かつ直感的な形と素材のオーソドックスではない取り扱い方によって、建築を人間的なものにしたいという深い願望を反映している。いわゆる国際様式モダニズム(フィンランドでは機能主義と呼ばれていた)の影響を受け、スウェーデンの建築家エリック・グンナル・アスプルンドバウハウス関連の芸術家や建築家と交流を持ち、アアルト氏は第二次世界大戦前後のモダニズムの軌道に大きな影響を与えるデザインを行った。

MoMA

アルヴァ・アアルトの生涯

1898年 フィンランド大公国のクオルタネ(Kirkkoranta)で、測量技師の父ヨハン・ヘンリク・アールトと母セルマ・ハクステットの間に生まれる。家系は代々林務官を務めていた。

1903年 家族と共にユヴァスキュラ(Jyväskylä)に移り少年時代を過ごした。その後アラヤルヴィに移り住む。

1916年から1921年(23歳)まで ヘルシンキ工科大学においてアルマス・リンドグレンのもとで建築を学び、在学中には両親の家を設計している。その後スウェーデンに渡り、アルヴィート・ビヤルケの事務所で働く。

1922年(24歳) ユヴァスキュラの近くに建つ教会を設計。

1923年(25歳) ユヴァスキュラに仕事を得たため戻り、建築設計事務所を開設。フィンランド建築家リストのトップに名前がくるようにAlvar Aalto(Aから始まる名前)とする。

1924年(26歳)、建築家アイノ・マルシオと結婚。ハネムーンに出かけたイタリアで地中海文化に触れ、生涯にわたる影響を受ける

1927年(29歳)、トゥルクの農業組合本部とヴィープリの図書館の建築設計コンペで一等を獲得したことをきっかけに、設計事務所をトゥルクに移した。

ヴィープリの図書館
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1266961

初期の作品はユヴァスキュラの労働者会館などに代表される新古典主義に基づく作風でしたが、同時期に設計されたトゥルン・サノマト新聞社から、モダニズムの作風へと転じていきました。国際的な建築家として知られる出世作となったのは1928年(30歳)に行なわれたコンペで一等を獲得したパイミオのサナトリウムでした。アルヴァ・アアルト氏とその妻、アイノ氏は、このサナトリウムのために「パイミオ・チェア」と呼ばれる安楽椅子を製作しています。

パイミオのサナトリウム
Leon Liao from Barcelona, España - Paimio SanatoriumUploaded by A333, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15118072による

この作品は北欧でモダニズム建築が台頭するきっかけになった作品の一つでした。同時期にCIAM(近代建築国際会議)の終身会員に選ばれ、ヴァルター・グロピウス、ル・コルビュジエらと知り合いになり、人間的な近代建築を生み出すことに生涯をかけた。

パイミオ・チェア
Modulor - 投稿者自身による著作物, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14518512による

1933年(35歳) 敷地変更のため中断していたヴィープリの図書館の設計が再開されたため、アルヴァ氏は事務所をウィープリに近いヘルシンキに移しました。1935年に竣工したヴィープリの図書館に見られる波形にうねる曲線による木製の天井は、モダニズムの空間に相反するフィンランドの伝統的材料である木材を用いることで、アアルト独自のモダニズムのあり方を押し進めるきっかけとなり、曲線と木材の使用はアアルトの作風の一つともなりました。(ちなみに「アアルト」はフィンランド語で「波」を意味します。)これをさらに押し進めたのがパリ国際博覧会フィンランド館(1937年)ニューヨーク国際博覧会フィンランド館(1939年)のうねる壁面や、マイレア邸での木材の使用であり、同時期にデザインされたアアルト・ベースでした。

マイレア邸。美術蒐集家のための家。内装に日本の伝統建築の影響が見られる
J-P Kärnä, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1247215による

1939年(41歳) フィンランド国内にソ連軍が侵攻(冬戦争)。いったんは和睦を見るが、その後第二次世界大戦が勃発します。戦時中アアルト氏は戦後の復興計画を練るなどして過ごしました。第二次世界大戦が終了すると、ニューヨーク国際博覧会で知己を得ていたアメリカ合衆国の建築家からの招きで1946年(48歳)から1948年(50歳)まで、マサチューセッツ工科大学客員教授を務め、MIT寄宿舎ベーカーハウスの設計を行いました。1946年からはドイツ軍により破壊されたサンタクロースの町、ロヴァニエミの復興に都市計画段階から携わり、多目的ホール、図書館、市庁舎、教会、住宅の設計を手がけました。1949年(51歳)、文教都市オタニエミ設計コンペティションに当選。都市設計の他オタニエミ工科大学のキャンパス計画と建物を手がけます。

1949年(51歳) 妻アイノ死去。それまでの作品には必ずアイノとアルヴァと署名していました

1952年(54歳) 建築家エリッサ・マキニエミと再婚。

1976年(78歳)、ヘルシンキにて死去。没後の仕事は妻のエリッサに引き継がれました。


建築物

セイナッツァロの村役場(1952)

セイナッツァロの村役場
Zache - 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2675567による


夏の家(1954)

夏の家
Timothy Brown from Chicago - Alvar Aalto - Muuratsalo house, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11134560による


ラケウデン・リスティ教会(1960)

ラケウデン・リスティ教会
Santeri Viinamäki, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=69725757による


アカデミア書店(1969)

アカデミア書店ヘルシンキ店の外観
Sektori - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27698780による


家具

スツール 60

スツール 60(1933)
画像引用元:artek.fi


115 傘立て

115 傘立て(1936)
画像引用元:artek.fi


901 ティートロリー

901 ティートロリー(1936)
画像引用元:artek.fi


A331 ペンダント ビーハイブ

A331 ペンダント ビーハイブ(1953)
画像引用元:artek.fi

Artek

Artek(アルテック)は、1935年、建築家であるアルヴァ・アアルト、アイノ・アアルト、アートコレクターのマイレ・グリクセン、美術史家のニルス=グスタフ・ハールの4人によってヘルシンキで設立された家具ブランドです。Artekの名前は、Art(芸術)とTechnology(技術)に由来して名付けられた造語。1920年代のモダニズムが目指した「アートとテクノロジーの融合」に共感し、そのキーワードが社名に込められています。


まとめ

現代においては、アルヴァ・アアルト氏は、建築家というよりは家具デザイナーとして広く認知されています。北欧家具ブランドのひとつとして、アルヴァ・アアルトの名が知られているのではないでしょうか。メーカーとしてはArtek(アルテック)なのですが、ブランド名よりもアルヴァ・アアルト氏の名前のほうが知られているように思います。

せっかくなので、ひとつ伝えたく思うのは、アルヴァ・アアルト氏は、妻アイノ氏が死去するまで、建築にしろ家具にしろ、いつも連名していたということです。チャールズ・イームズ氏も妻のレイ氏との連名にこだわっていましたが、世間は、男性のほうに収斂して記憶しようとしがちですが、アイナ氏との協業、共作であるということを念頭においておきたいものです。

それから、つい「北欧」と一絡げにしがちですが、北欧を構成する国はいくつかあり、それぞれにそれぞれの歴史やキャラクターがあります。アルヴァ・アアルト氏の場合は、フィンランドです。フィンランドは1809年にスウェーデンから独立しています。独立のきっかけは1917年のロシア革命でロシア帝国が崩壊したことでした。独立してしばらくは王国(王様のいる国)でしたが、1918年に君主制を廃止して、共和制になっています。ところでフィンランドがあるのは地球のこのあたり。

Fjat - 投稿者自身による著作物, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17061966による

モダニズムを木のぬくもりで包み、フィンランドらしさ、人間らしさを加味したうえで、高い完成度を示したことが、アルヴァそしてアイナ両氏の功績でしょう。合理的な曲線や構造を木を素材とすることで無機的な合理性を好むモダニズムが、温かく生活や人生に入り込むことを可能にしています。北欧家具が世界中で好まれるのは、アアルト夫婦が作り上げたモデルによるところも大きかもしれません。


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参照


https://www.moma.org/artists/34


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