読書記録:『意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論』

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論/ジュリオ・トノーニ
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私のイチオシ統合情報理論

何度がブログ等で述べている統合情報理論の本をやっときちんと読んだ。

統合情報理論の基本的な命題は、

 ある身体システムは、情報を統合する能力があれば、意識がある。

というものだ。

”情報”を”統合”する、とはどういうことか。

そもそも「情報」とは何なのか。

情報理論の父と呼ばれるクロード・シャノンの時代から、「情報」の定義は「不確実性を減らすこと」と結び付けられ、「情報量」は、ある事象が起きたとき、その事象に代わって起こりえたのに起こらなかったことの数が大きければ大きいほど多い、とされてきた。

例えばコインを投げたとき、表が出たとする。このとき起こらなかったのは”裏が出ること”だ。起こらなかったのことは1つだけ。しかしこれがサイコロになると、例えば1の目が出たとすると、起こらなかったのは”2の目が出なかったこと””3の目が出なかったこと””4の目が出なかったこと””5の目が出なかったこと””6の目が出なかったこと”の5つ。二十面ダイスになれば起こらなかったことは19個に増える。

出た目は1つだけだ。けれどそれは1つの情報ではない。その目が出た、という情報と、他の目が出なかった、という情報全てを指す。

機械と人間は何が違うのか

この本ではとある思考実験が紹介されている。

何も無い部屋に人がいる。もう一つ、同じ環境に明暗を判断できる機械が置いてある。

外の人間が明かりをつけたり消したりする。その度、明るいか暗いかを外に伝える。このとき人も機械も同じく、「明るい」「暗い」の2つしか外には伝えない。

だがしかし、いきなりそれまで白かった明かりに色がついたらどうなるだろうか。機械は問題なく明るいか暗いかだけ外へ伝えるが、人では戸惑いが生じることがあるだろう。それは「明るい」という情報以外にも色の情報を受け取る感覚があり、それが同時に動くため機械よりも多く情報を受け取ることになる。色の判断を機械にさせるにはデバイスやプログラムを増やすしかない。

機械と人間の違いは情報量の差

統合情報理論では、身体的システムの情報量を定めるべく、新しい単位を導入した。それが、Φ(ファイ)と呼ばれる単位だ(このギリシャ文字の真ん中の縦線は「情報」を表し、丸は「統合」表している。Φの値は、情報の単位、ビットで表される。

機械は受け取った情報を伝える。基本的に一方通行だ。だが人間はそうではない。ただの明かりを見ただけでも、どんな明るさか、どんな色か、どう感じるかなど様々な情報を得る。そして必ずフィードバックが起きる。受け取った感覚器官、この場合瞳だが、明るさに応じて瞳孔の大きさを変える。それは無意識で、人がそうしようと思ってするわけではない。自動的に、身体反応として反射神経でそう勝手に同行は動く。

ただの明かりだけでも、人間が受け取る情報量、そして発する情報量は大きく差がある。それらは別々に受け取るのではない。とある事柄から受け取る情報を脳はいろんな領域で解析し、それらは別々に処理されるのではない。相互に様々なやり取りをし、”統合”される。

情報が統合されたとき意識が生まれる

情報のやり取りは脳で行われる。脳波測定で意識の有無を確認できる。植物状態の人間と健康で眠っているだけの人間では脳波に明らかに差があった。

刺激を与えて脳波を測定するのだが、同じように眠っているだけに見えても植物状態と睡眠状態では脳波の大きさが異なっていた。

神経伝達はニューロンで行われる。そのニューロンがどれだけ動くのかどうか、その動きの大きさが情報量の大きさであり、Φの値となる。

ペンローズの〈量子脳〉論では収縮とかマイクロチューブルとかいろいろややこしく言っていたが、「コンピューター以上の事ができるのが意識」と言っている辺り人間という生き物に幻想を抱いている、ある種ロマンチストだったのかもしれない。

単に情報量が異なり、その情報がどう処理されるのか。こちらの方が単純な話だ。夢はないかもしれないが。しかしこの理論には別の夢がある。機械が、AIがいつか”意識”を持つかもしれないという夢が。これはこれでロマンだろう。

量子脳論はそれはそれで興味深いのだが、やっぱり私はこっちの方が好きだな。

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