読書記録:『意識 〈1冊でわかる〉』

意識 〈1冊でわかる〉/スーザン・ブラックモア
https://www.amazon.co.jp/dp/4000269011/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_2HTbEbXHW1YZE

こちらの本だがとてもよみやすくわかりやすかった。

だが一つ。

正しくは〈1冊でわかる(わかるとは言ってない)〉が正しい

意識とは?

「意識」という単語を我々は特段意味や定義を気にすることなく普段から使っている。では意識の定義とは、と聞かれるとはっきり正解を答えられる人はいないだろう。ええ。全くいないというのが正しい。何故なら意識という単語がありながら意識とは何か解明されていないからだ。

意識とは何か、という仮説がおそらく満遍なく集められたこの本。時折著者の私見を交えながら紹介されていき、さて結論は?となったところで終わる。

しょうがない。だって結論はまだ出ていないのだから。

意識を解明するにあたって著者はこう述べている。「底知れない深淵」のような大きな問題が存在すると。

物理世界と心的世界のあいだにある大きな深い裂け目、すなわち「底知れない深淵」

実際意識というのはどちらかといえば霊魂など霊的な存在として哲学者や思想家が考え、脳科学などの科学面からはまずどのように人間は肉体を制御するのかについて研究していった。やがて哲学者や思想家は”魂は不滅”か”無我(永久なる魂など存在しない)”とのという考えに至り、脳科学は脳内の電気信号と化学信号で脳は動き指令を下し肉体を制御しているところまで突き詰めた。

しかし未だ”意識”を明確には掴めていない。

意識は何故掴めないのか

大抵の人は二元論を提唱している。脳や肉体を操っている「自分」がいるという考え方だ。それならその「自分」とやらは一体どこにいるのだろうか。

脳の中は劇場のようになっておりその鑑賞者が「自分」という考えがよく広まっているが、結局それは脳の中に「自分」がいることになる。ではそれは一体どこにいるのか?

かつててんかん発作の患者に行われていた右脳と左脳を切り離す手術があった。右脳と左脳が物理的に切り離されてしまうので「自分」はどちらか片方のものしか知覚できなくなる。かと思いきや、そんなことはなく、患者は右脳と左脳を切り離されても以前とほぼ同じように、右脳が司る部位も左脳が司る部位も知覚した。また後天的にどちらかの視覚を失った患者は見えない方の目の前に簡単なイラストを出されそれを当てるクイズをさせられた。勘でいいので答えてくれと言うと半数以上の患者が”勘で正解”した。

つまり「自分」=「脳」なのである。

しかし脳内では我々が無意識に行っている動作も司っている。”無”意識である。意識しないところで動いている何かを我々は知らない。風邪を引いて熱が出てもそれは「自分」が「ウイルスに感染したから駆除のため熱を上げろ!」命令したからではない。体が勝手にやっているのだ。そこに「自分」の意思は介入しない。

実際のところ、彼(デネット)は自我を「物語的重力の中心」と呼んでいる。私たちの言語が自我の物語を作り出すため、私たちは一つの身体に加えて、意識を持ち、意見を抱き、決断を行う一つの内なる自我があると信じるようになるのである。ほんとうは内的な自我などなく、使用者にとって害のない幻――役に立つ虚構――を生じさせるような、複数の並行的プロセスがあるだけなのだ。
つまり、彼によれば、私たちは他人(あるいは、パソコン、時計、漫画のキャラクター)を、まるでそれらが心を持っているかのように扱うのであり、それはふつう、出来事を理解する効果的な近道なのである。
私たちはこれと同じ習慣を自分自身にも向ける。つまり、他人に欲求や意図を帰属させるだけでなく、それと同じ種類の欲求や意図を持ち、ものごとを引き起こす内なる自己が私たち自身のうちにあると想定する。
すると、意識は壮大な錯覚だという事になる。「私はいま意識があるか」、「私はいま何を意識しているか」といった問いを問う事で意識が生じてくる。問うているその瞬間に意識がでっちあげられる。

つまり、我々は自分を擬人化しているようなものかもしれないのだ。

我々は自分を観測しやすいように「自分」というものをでっちあげる。つまり「意識は壮大な錯覚である」。しかしこれを確認する術は見つかっていない限り仮定でしかない。もしかしたら近未来霊魂などスピリチュアルな分野も科学に取り込まれ分析研究できるようになれば、霊や魂といったものが見つかりそれが「自分」であり「意識」であるということになるかもしれない。

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