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溢れる物たちはきっと、溢れていた想い。

すべてのHSPの人に聞いたわけではないのでわからないけど、かなりの高確率でHSPは断捨離が辛いんじゃないだろうか。

長年生きて来たら、自分に管理できない量の物、狭い家の狭い収納に納まりきらない物がいつのまにか家のあちこちを占領している。

断捨離したいとずっとずっと思ってた。ようやく片付けに割ける気力と時間ができてきたので、最近はせっせと毎日家のどこかしらを整とんしている。

一気にバッサリ捨てまくって、必要最低限の物だけ残すのが本当は理想的。

けれど、多すぎる物の要不要を細かく判断する気力と時間までは保てない。
一か所に時間をかけすぎても、絶対に遅々として進まないに決まっている。いつまでたっても片付かない家のまんまになってしまう。

やっつけ仕事である程度処分しながら、とりあえず家の中一周を軽く断捨離するつもりで進めている。




片付けるべく物を選別していると、使おうと思って買ったのにほぼ活躍の場が無かった物が、山となって姿を見せる。

20年くらい前、近所のフリーマーケットに何度か出店した。
その時にいらない雑貨や鞄を売って以来、やたらと衝動買いして物を増やさないよう気をつけてきた。

それでもやっぱりどうしても、長年の間に物は増えてしまった。

いつか使えると思って結局使わなかった紙袋だの何かの景品だの、そういうものは迷うことなく捨てられる。

そうではなくて、買ってもさして使わないまま、また似たような物を買っていたり。
使いこなせていないのに、それでも新たな物を買って増やしたり。

そうやって、今までのわたしがこの家に持ち込んだ物たち。

そもそもどうしてわたしは、それらの物を手に入れたのだろうか。



──── それは、自分のため、自分以外の誰かのため。

より良い自分になろうとした。
その時の自分の理想を叶えようとした。
誰かに、何かしてあげようとした。
誰かに悦んでもらいたかった。


そんな想いで、それぞれの物を手にしていたはず。
それらを叶える道具として買ったはず。


物の数だけ、自分や誰かに抱いていた想いがある。
その頃の自分の中で密やかに生まれていた気持ちがある。
それが形になって、目の前に山積みになっている。

でも、使えなかった、使いこなせなかったのは、叶えようとしたものが叶っていないということ。

その原因のほとんどが、忙しかったから。
それぞれの時に抱いた想いは結局忙殺されて、手をつけられずに時が過ぎてしまった。
そのうち、いつかと思いながら物をとっておいても、想いが薄れてしまったり、時間が経ちすぎてしまい今さら使うには手遅れになってしまった。

やりたいことができない忙しさ、心を亡くすような忙しさは、よくないね。


使えなかった数多の物たちを処分に回しながら、それくらい、自分や誰かに向き合って生きてきた証しなんだと自分を慰めた。



見えている部分がスッキリしたり収納に余裕ができると、気分も楽になる。

その一方で、ぐったりとひどく疲れもする。

処分する物たちから一気に受け取ってしまう、物にまつわる記憶と感情。

捨てることで、まるでそれらを否定してしまう気分になる。
誰かに譲るならともかく、「 ゴミ 」という扱いにせざるをえないと、ひどい罪悪感にかられてしまう。

その物たちがいま手元にあっても無くても、物にまつわる出来事が存在したことも、抱いたり受け取ったりした想いも、本当は消えやしない。
でも、物が無いことで思いださなくなる、そして忘れ去ってしまうのがどこか怖いのだ。

『 写真で残す 』という方法が断捨離にまつわるあちらこちらで提案されてる。
ただ、もはや写真も色々撮りすぎて管理できていない。
今回は写真に残すことすら断念した。


普段は忘れていても、どうということはないのにね。
生きている間のことを全部覚えているのも不可能だし。


今日も心をちくちくと痛めつつも、断捨離を勧めている。

物がないと思いだせない過去を惜しむよりも、これから新たに抱く気持ちとやりたいことを大切にした方がいいんだよ。

自分にそう言い聞かせながら。





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