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彼女の待ち人

 僕は、同期の女性二人に誘われて職場近くのワイン酒場に来ていた。
 金曜の夜には、ふらっと行っても入れないと聞いていて、三人で予約をいれてあった。
 入ってすぐ漂ってきた、焼けたチーズの香りに食欲をそそられた。肉の焦げ目の匂いもする。
 外からはこぢんまりした店にみえたが、カウンターや相席用の大テーブルもあわせて意外に客席がある。評判通りの賑わいで、僕らが店に着いた時間には、すでに八割ほどが埋まっていた。店内はBGMをかき消すほどの明るい話し声が溢れていた。
 木肌をふんだんにあしらった内装で、柔らかく温かな雰囲気だ。壁面は自然な凹凸を残してある。
 むき出しの梁に、ぶどうの葉を思わせるアイビーのツタが絡ませてある。天井からいくつものペンダントライトが下げられ、オレンジ色の優しい光で照らしている。
 いかにも女性が好みそうな空間ではある。
 先日、同期の中で、僕がいち早く役職を得た。新人研修で同じ班だった辻と、辻と仲の良い小野の二人からお祝いをしたいと声をかけられたのだ。そうは言っても、最終的に勘定をもつのは自分だとわかっていた。二人は、社内で一、二を争う美人だった。当然、男から奢られ慣れている。
 スタッフに名前を告げると、窓際の四人がけの席に通された。二人が、店内が見える側に座りたいというので、譲った。
 記録的猛暑と呼ばれた夏もようやく終わろうとしている。日が暮れれば過ごしやすくなってきた。僕の正面の掃きだし窓は開け放たれていた。その向こうの小さなウッドデッキにはワインボトルがいくつも飾ってある。軒先のスポットライトが当たって煌めいていた。店の前の立て看板に、若い二人連れが足をとめ見入っている。
 店の、外の音と内の音とが何に遮られることなく聞こえてくる。僕は海水と淡水が混ざり合う河口のようだと思った。
 僕の側は二人がけの木製ベンチだった。引き出して、なんとなく右側に寄って座った。
 テーブルにホールトマトの缶がいくつか置いてあり、その上にメニューが載せてあった。手に取って開く。良心的な価格帯に驚いた。覚悟していたより随分負担は軽くすみそうだと、せこい考えが頭をよぎった。
 料理の内容はどれも良さそうだ。二人から「美味しいと噂のお店」と言われていたので、不安はなかった。
「二人が食べたいものを頼んでよ」
 注文を任せて、僕は隣の席に視線をむけた。
 僕の右側は二人席で、まだ空いていた。二人分のグラスが伏せて用意されていた。
 コルク栓の切れ込みにウェルカムカードがさして置いてある。目を細めて焦点を合わすと『さくら様、ご予約ありがとうございます。』と書かれているのがわかった。
 カードの名前をみて、思わず息を止めた。別にありふれた名前だ。僕の知る“さくら”ではないはずだと言い聞かせる。
 僕は、これから隣に来る人達が気になって仕方なかった。つい、一番最悪のシナリオを思い浮かべてしまう。僕を捨てた彼女が、ほかの男と隣に居合わせるなんてことが起これば、平静を保てるはずはなかった。
 気を紛らわすために、振り返って店内を見回した。ボーダー柄の制服を着たスタッフが配膳に動き回っている。ここにいる人たちは、誰もが笑顔だった。カウンター席の正面の棚には、たくさんのワインボトルが並んでいた。
 みればみるほど、彼女好みの雰囲気だった。ますます、彼女が新しい男と来るような気がしてきた。
 リーズナブルとはいえ、安っぽくはない。格式張らず、気を遣わせず、付き合い始め……もしくは、距離を縮めたいときに誘うのに、適している気がした。
 長い付き合いのなかで掛け違いができていたとしても、記念日でもないありふれた日に、この空間でたわいない会話をかわせば、溝が埋まる気さえする。
 ほんの三ヶ月でも早くこの店の存在を知って、彼女を誘って来ていれば……。
 馬鹿げた妄想だった。
 その頃の僕は、ここへ来るような時間を持ち合わせていなかった。
 彼女を幸せにするためにと頑張っていた結果がこれだ。僕は、少しばかりの出世と引き換えに、彼女を失った。
 お通しはバケットだった。
 目の前の二人は、メニューをみながらはしゃいでいる。
「たくさん頼んでもいい? 食べられるよね」
 辻から訊ねられた。
「空腹だからね」
「やっぱり、吉野さんは頼りになる」
 小野に妙な持ち上げられ方をした。腹を空かせていることと、頼りにされることが結びつかない。
「吉野君は、細いのによく食べるもんね」
 痩せの大食いとよく驚かれるが、あくまで『意外に』程度だ。
「『生ハムとサラミのてんこ盛り』は外せないし、ほかの盛り合わせも食べてみたい」 
 たしかに、ちらりとメニューを覗いたときに、生ハムには惹かれた。さっき、いくつかのテーブルの上にプレートがあるのをみかけた。人気メニューなのだろう。
 ワイン酒場にきておいてどうかと思うが、最初は三人ともビールを頼むことにした。
 注文の途中から頼りにされた理由ははっきりした。せっかくだから、いろいろ食べてみたい。しかし、種類を多く頼むと二人では食べきれない。
 二人が食べきれない分を処理するために、僕は連れてこられたらしい。
 料理を待つ間、辻と小野は、コスメやネイル、ファッションなど、僕には分からない話で盛り上がっていた。相槌さえ求められていない。僕の方も、別に会話に参加する気はなかった。
 誘われた理由が、断りにくいものだった。ここにいる理由はそれだけだ。
 それにしても二人は、時々頬を寄せるように同じ画面を覗き混んだり、顔を見合わせて笑ってみたり、向き合って前髪を触りあったり、何をしても絵になる。何気なく撮っても、雑誌に載せられそうだ。
 あんまり眺めると誤解されそうなので、僕は頬杖をついて視線を外に向けた。結構人通りが多い。
 もしかしたら、彼女が前を通るかもしれない。
 ここは、彼女の職場からも近かった。だから余計に、隣の席を予約しているのが彼女ではないかと、不安になるのだ。
 考えてみれば、二人だからといって男女とは限らない。彼女が友達とくる可能性もある。だとしても、両手に花で僕がここにいる状況を、彼女にみられたくはない。
 別れたそばから女を侍らせていると思われたら、戻せる“寄り”も、戻せなくなる。
 僕は自分に呆れてため息をついた。本当は、一縷の望みも残っていなかった。
 彼女に別れを告げられた時、散々粘った。やれるだけのことはやり尽くした。プレゼンは得意なはずなのに、彼女の心はまったく動かせなかった。
 別れを告げられてからしばらくは、会いたいと連絡を入れた。何度も断られ、そのうち無視されるようになった。
 家を知っていても、通報されやしないかと怖くて近づくことができなかった。
 未練があるのは僕だけだ。いっそのこと、新しい男といる彼女をみて、とどめを刺された方がよいのかもしれない。
 テーブルに、ビールが運ばれてきた。そして、辻が楽しみにしていた生ハムも。
 スタッフが、テーブルの中央に置いてあるホールトマトの缶詰の上に、プレートを載せた。20インチディスプレイほどのプレートに生ハムが敷き詰めてある。中央にはサラミもたっぷりと盛られている。目の前で二人が嬉々とした声をあげた。スマートフォンで写真を撮りながら、美味しそうと声を合わせて言った。
「とにかく乾杯しよう」
 グラスを手に持った。
「同期の星、吉野君のますますのご活躍を祈念して!」
 入社して五年あまり、こうやって祝ってくれる同期がいるのはありがたいことだ。
 乾杯のあとで、グラスに口をつけた。ふと、気配を感じて外に目を向けた。
 そして僕は、彼女をみつけた。
 髪型が、変わっていた。長いストレートだったのに、今は、肩につかないほどの長さで、緩くウェーブもかかっていた。見覚えのある桜色のワンピースを着ていた。別れてからまだ、二週間も経っていないのに、随分雰囲気が違った。
 こんな偶然が起こっていいのだろうか。
 彼女が店に入ってきた。
 つい、下を向いて顔を隠そうとした。今みつからなくても、そのうち絶対に気づかれる。無意味であることはわかっている。
 彼女が、スタッフに声をかけられ「さくらで予約した者です」と、返す声が聞こえてきた。「ただいま、ご案内いたします」と、スタッフがこたえた。
 隣に、彼女が来る。自然と背中に意識が向く。近づいてくる足音が、僕の鼓動でかき消される。空気の流れを肌が感じ取っているのだろう。彼女が背後を通っていくのが、鮮明に伝わってくる。一瞬、彼女の香りがした。
 僕は、頬杖をつくそぶりで顔を隠した。さりげなく、隣に背を向けるよう体を捻る
 椅子をひく音が聞こえる。バッグを、足下のかごに入れたのがわかった。
 今のところ、彼女は一人だった。ただ、予約は二名からなので、誰かがやってくる。背中が熱を帯びて汗ばむ。
 口の中が乾いていた。ビールを流し込む。普段なら喉を鳴らしながら至福を味わえるのに、今日はひたすら苦々しい。半分まで飲んだ。
 辻が「来た、来た」と言った。一瞬、彼女の連れ合いが来たのかと焦ってしまった。
 二人が手を叩いて喜んでいる。意識を自分のテーブルに戻した。牛タンのワイン煮込みやトマトのマリネ、枝豆など、いくつかの料理が運ばれてきた。二人がまた楽しそうに写真を撮っている。
 デミグラスソースの香りがする。たしかに美味しそうな料理だったが、今の僕に食欲はなかった。
「食べよ、食べよ」
 取り皿を渡された。
 辻が「チェリートマト、気になってたの」と、言いながら、早速フォークにさして口に運んだ。
「美味しい」と、大げさに顔をほころばせた。それから、もう一つフォークにさすと「食べてみて」と、小野に食べさせた。小野の唇についた油を、辻が指先で拭った。
 二人がこれほど仲が良いとはしらなかった。
「ちょうど二つずつだった」と、残りを皿ごと渡される。僕は、まだ、食べる気になれなかった。オリーブオイルを纏ったトマトのテカリを眺めながら、彼女が今どんな表情でいるのかを、考えていた。
「飲み物追加するでしょう。何がいい?」と、辻に声をかけられ、我にかえる。
「さっきから、上の空だよね。さては仕事のこと考えてるな」
 まったく違ったが、頷いた。辻が「これだから仕事人間は」と、冗談交じりに言う。
「で、どうする? 飲み物」
 僕は、すぐに返事ができなかった。声で気づかれかねない。彼女に聞こえないよう小声で「適当に頼んで」と伝えた。
 辻は、「わかったあ」と、言って、小野とドリンクメニューを見始めた。
 彼女が、スタッフを呼んだ。
「もう一人が遅くなるみたいなので、先に頼みます」
 声に元気がない。バーニャカウダとリゾット、ラムチョップと、グラスでランブルスコを頼んだ。
 僕はなんとなく感じ取ってしまった。友達相手であんなにテンションが下がるわけはない。彼女を待たせているのはきっと男だ。仕事が長引いているのだろうか。そのうち、息を切らせながら駆けつけて「待たせてごめん」「全然平気よ」なんてやり取りがはじまる。
 僕は、どうすればこの場を離れられるかを考えはじめた。仕事が入ったフリをするしかなさそうだ。タイミングをはかっているうちに、鴨肉のソーセージ、スフレオムレツやピザ、パスタが続々運ばれてきて、僕は帰るわけにはいかない現実をつきつけられた。
 ただ、食べ物を減らしさえすれば、役割は果たせる。僕はまだ、ほとんど手をつけていなかった。気を取り直して食べ始めた。僕が三分の一を負担しても意味がない。半分を目安に取り皿に移していく。
「あっ、やっとスイッチ入った」
 辻が嬉しそうに言う。
「ラムチョップ食べたいから、追加しても大丈夫だよね?」
 止めようとして、すぐに気づき、なんとか声を飲み込んだ。ちょうど、さっき頼んだ三種のサングリアが運ばれてきた。ついでにと辻が注文をしてしまった。ムール貝のワイン蒸しまで追加されていた。
 辻に名前を呼ばれてしまえば、彼女にみつかる。どうせなら早いほうがマシな気がしてくる。
 自ら「あれ? 偶然」なんて、話しかけてしまったほうが楽かもしれない。そう思いつつも、彼女からもし、あからさまに嫌な顔をされたらと思うと、それも、できなかった。
 辻から、飲み物を渡された。赤ワインを何かで割ってあるのだろう。赤みがかった液体に半月型に切ったオレンジが浮かんでいる。辻は桃の、小野は苺のサングリアを選んでいる。二人は、グラスに口をつけるポーズで写真を撮りあった。それからまた僕にはわからない連続ドラマなどの話をはじめた。
 僕の昇進祝いで誘われたはずなのに、完全に蚊帳の外だった。今は、別れた彼女が隣の席にいるから、この扱いがかえってありがたい。
 僕は、料理を減らす作業に専念することにした。ピザの生地の表面がカリッとしていて、美味い。石窯で焼いてあると書いてあった。赤ワインベースのサングリアも、ほんのりと甘く飲みやすい。こんな状況下でなければ、もっと、楽しめたのに……。
 いつか、別の機会で来よう。
 僕は、ここから出るために、とにかく食べていく。 
 辻が「お手洗いに行ってくる」と、立ち上がった。小野もついていくと言う。辻が、席を立ったあと、一度僕の側に回った。僕の肩に手を載せてきた。「ちょっと、長くなるかも……」と、耳打ちをされた。気分でも悪くなったのかと心配したが、その後にクスッと、耳元で笑った。息がかかるだけでなく、一瞬唇が触れた。くすぐったくて左耳を手で覆った。
「吉野君、耳弱いんだ」
 からかわれた。笑いながらで、声も大きめだった。
「じゃあ、待っててね」
 二人は、お手洗いの方へ歩いて行く。僕は、一人取り残された。
 さっきのやりとりは、彼女に聞こえただろうか。
 不自然に体を捻った姿勢のまま、テーブルの上に並ぶ食べかけの料理をみつめる。背後に、意識を向けたところで、彼女がいまどこをみて、何を考えているかなどわかるはずがない。
 隣にいることに気づかれたとして、僕が、女二人を連れて楽しげに飲んでいても、妬いたり焦ったりすることはないだろう。
 彼女にとっては僕は、過去の男でしかない。
 ため息がこぼれる。
 その時、後ろから「ひさしぶり」と、彼女の声が聞こえた。
 隣席から確かに聞こえてきた言葉を、僕は空耳なのかと疑った。隣のテーブルには、彼女しかいない。
 そして、彼女の声の届く場所には、僕しかいなかった。
 店の入り口は僕の視界のなかにある。彼女の待ち人が、店に現れたわけではなかった。それでも、僕に向けられた言葉なのか、確信がもてない。
 覚悟をきめて、彼女の方へ顔を向ける。
 目が、合った。
「ひ、ひさしぶり……」
 彼女とこうして言葉を交わすのは、本当にひさしぶりで、動揺が声に出てしまう。
 新しい髪型はとても似合っている。メイクにも、どこか“気合い”を感じる。付き合い始めの頃は、僕のためにもそうしてくれていただろうか。ほんの数年前のことなのに、細部は思い出せなかった。あの頃の僕は、彼女と付き合えていることで、ただただ、舞い上がっていた気がする。
「会社の人?」
 僕は頷いた。
「仲が良いのね」
「お祝いにって、誘われて」
 つい、言い訳をした。
「そう。偶然なのね。私も、待ち合わせで、たまたま」
 相手は、男? なんて、訊けるわけはなく「そうなんだ」と、返した。
 彼女がどこか探るような視線を向けてくる。そう感じるのは単に僕の自惚れで、煩わしさが顔に出ているだけかもしれない。
「相手の人、遅れてるの?」
 僕から視線をはずし「もう、来ない……と、思う」と、言った。
 ホッとしたことを、必死で隠す。返す言葉が見つからずに黙っていた。
「注文したもの食べてすぐ帰るから、気にしないで」
 この後どう? なんて、誘ってみても、断られるのは目にみえている。せめて、次につなげられる何かがないかと、考えを巡らす。
 何も見つけられないうちに、彼女のテーブルに料理が運ばれてきた。僕と彼女の間にスタッフが立って、会話は打ち切られた。
 スタッフが去ったので、彼女の様子を窺った。もう、僕の存在を忘れたかのように、素知らぬ顔で食事をはじめていた。
 彼女の中では、食べたら帰るという言葉で、僕との会話は完結していたのだろう。
 彼女が、相手は来ないと言っていたので、新しい男を目撃する心配もなくなった。それでも、長居はしたくない。僕も、フォークを手に取った。
 彼女と来られていれば、どんなに楽しく美味しい食事だったろう。
 こんなに近くにいるのに、僕と彼女とはもう、時間を共有できる関係ではなかった。やるせなさに包まれる。
 辻と小野が戻ってきた。小野がなぜか僕の隣に座った。小野の頬が少し赤い。離れている間で、酔いが回ったのだろう。
「ちょっと反省したのよ。吉野君のために来たのに、二人だけで盛り上がってたこと」
 お手洗いに行っている間に、席替えを話し合ったようだ。
「別に、かまわないのに」
 本音だった。できれば、小野には元の席にもどって欲しい。辻は「そんなわけにはいかないわ」と、顔を左右にふった。そして、「さあ、はじめて」と、少しきつめの口調で言った。
「わかりました」
 受け答えに、違和感がある。声が、微妙に震えていた。心配になって小野をみると、潤んだ目で僕を見ていた。
「生ハムをお取りしますね」
 唇が艶っぽい。あまりの色気に、ドキリとしてしまった。
 彼女との復縁に望みが持てなくても、この場でこんなチャンスはいらなかった。
「僕は自分でできるから、あっちに戻ってもらえる?」
 小野が眉をひそめて「あっ」と声を漏らした後、僕の腕に触れた。この感じは、かなり酔っている。辻に助けを求めて視線を送ると、微笑を浮かべて小野を見詰めていた。
「私が嫌いなんですか?」
 小野が腕にまとわりついてきた。腕にあたる柔らかさが、まるで何もつけていないかのようだった。
「嫌いじゃないけど、本当に、困るから」
 なんとか小野から離れようと体を動かした。さらに胸を押しつけられる。少し強めに小野の肩を遠ざけようとした。
「さすが、吉野君!」
 辻は「もう、戻ってもいいよ」と指示を出した。小野は、すぐに僕から体を離し元の席に戻っていく。辻は、自分の隣に座った小野の頭を撫でた。それから、僕の方に向き直って「吉野君、お願いがあるんだけど」と言った。
 何をお願いされるのか予想がつかない。僕は彼女に聞かれたくなくて「それ、今度じゃだめ?」と、言ってみた。
 辻が首をかしげた。
「なにを頼まれると思ってるの?」
「いや、まったくわからない」
「安心して。せまったりはしないから」と、笑った。
 仕事のことだろうか。それなら、かまわない気もした。そもそも僕が聞かれたくないだけだ。彼女にとっては、見知らぬ人たちの雑談と大差ないのかもしれない。
「引き受けるかはわかんないよ」
 そう言ったのに、二人は断られるはずがないと思っているらしく「やったね!」と、向かい合って手を握り合った。
 隣から、フォークの先が皿を掠める音が聞こえてきた。我関せずで、食事をすすめているようだ。
 辻が背筋を伸ばした。
「食事代はこちらが負担するから、時々、今日みたいな感じで私たちに付き合ってほしいの」
 意外なほど軽いお願いではある。しかし、腑に落ちない。
「いくらでもほかに誘える相手がいるだろう?」
 自分持ちでも、二人と食事に行けるのなら喜ぶ男は多いはずだ。
「たんに、一緒に行ける人が欲しいわけじゃないもの」
 辻が、肩をすくめながら言う。
「適切な相手は吉野さんだけです」
 小野が、上目遣いで僕を見た。
「だって、吉野君は、私たちにまったく興味ないでしょう」
 確かに、異性として興味を持ったことはない。社内恋愛がNGだとかそういう問題でもなく、単に二人は、僕の好みではなかった。
「庄司さんからも高橋さんからも……」
 小野が僕と同じ班の二人の名前を出して、なぜか、恥ずかしそうに頬に手をあてた。なかなか続きを言わない。不安になってくる。
「彼女さん“ラブ”だって聞いてます」
 小野言葉に、僕は、思わず顔を隠した。
「照れることないよ」と、辻が追い討ちをかける。
 これ以上はやめてくれと、心で叫ぶ。
「彼女にプロポーズするために必死で契約をとってくるって、結構有名な話よ」
 恥ずかしいのでも、腹立たしいのでもなかった。負ったばかりの傷を抉られているようで、ただ、苦しかった。
 彼女から、気の毒にと思われているのかもしれない。
「で、プロポーズはしたの?」
「なんて、言ったんですか?」
 二人は悪気無く訊いてくる。僕は顔を伏せたまま、手をふってやめて欲しいと訴えた。
「吉野君の反応可愛い。面白すぎ」と、聞こえてきた。
「当然、OKだったでしょう?」
 堪えられずに顔をあげて「してない」と、言った。
「まだ、だったの?」
 辻が、あり得ないという視線を向けてきた後で、「ああ、そうか、バースデー待ちね」と、見当違いのことを言った。
「違う」
 僕は、つい大きな声を出してしまった。一度息を吸い込んで気持ちを落ち着かせる。
「彼女とは、別れたんだ」
「え?」と、二人が同時に声をあげた。
「ふられたんだよ。だから、もうこの話はやめて」
 ゆっくり息を吐きながら、目を伏せた。
 辻と小野に謝られる。今の僕には、それさえ辛かった。居たたまれず、帰りたいと言いかけたときに、しゃくり上げる声が聞こえた。
 驚いて、隣を見た。
 彼女が、フォークとナイフを手に持ったまま、泣いていた。皿の上で、ラムチョップが細かく切り刻まれて、散らばっていた。
 彼女を抱きしめたくなる。だけどきっと、僕の慰めなど求めていない。
 女性は、自分の想いが叶わなくても、相手の想いを受け入れられなくても、自身の悲劇にできると誰かが言っていた。今は、浸りたいのかもしれない。
 関係ないフリをしながら、彼女が泣き止むまで見守るしかなかった。
 辻が、席を立った。足下のバッグから何かを取りだした。どこへ行くつもりなのか訊くまでもない。視線は、彼女に向けられていた。
 僕の思考が追いつかないほどの早さでこちらへ来た。
 僕の隣に立って「大丈夫ですか?」と、声をかけた。彼女の脇に腰をおろして、ハンカチで、涙を拭いはじめた。
「おかまいなく」
 声が、震えている。
「無理しなくて、良いんですよ」
 辻はそう言って、彼女の手からフォークとナイフを取り、皿の端に置いた。背中をなでながら「大切な人が、来なかったんでしょう」と、言った。
「大切……な人……」
 声をつまらせた。
「だけど……」
 また、彼女が泣き出した。
 辻に渡されたハンカチを握りしめながら、目の辺りにおしつけた。
 辻は、立ち上がって彼女の肩を腕で包む。もう一方で、頭を撫でている。
 僕は、自分を鼻で笑った。どうして、僕のために流した涙だと思えたのだろう。
 彼女は、僕の痛々しい話を耳にしているうちに、待ちぼうけをくらっている自分自身まで惨めになっただけだ。
 ため息をつきながら、テーブルに視線を戻した。気分を落ち着かせるためにグラスに手を伸ばした。
 何気なく顔を正面にむけた途端、僕は、思わず息をのんだ。
 小野が、瞬きもせずに、辻と彼女のことを見ていた。
 ここに来てからの、二人の予想以上の仲の良さは、友情ではないのだろうか。
「ひとりでポツンといたらいつまでも泣けちゃうよ。こっちのテーブルおいで」
 辻の声が聞こえてきて、僕はまた思考停止に陥った。空いているのは僕の隣だ。
 彼女もどうすればよいかわからないのだろう。辻に促されるまま立ち上がった。
「吉野君、その席あけて。それから、テーブルの料理も移して」
 慌てて立ち上がって避けた。辻は、彼女を僕のいた場所に座らせた。ハンカチで目元を押さたまま、俯いていた。涙はとまったのかもしれないが、まだ、呼吸が激しい。背中が上下に揺れている。
 僕はまず、自分の皿やグラスを脇に避けた。彼女のいたテーブルから、料理を運んで並べる。辻は、スタッフを呼んで、席が空いたと説明した。
 彼女から精一杯距離を取ってベンチの左端に座った。なんとなく、彼女の方へ視線がむけられない。さっきの小野の表情が気になっていたので、はす向かいの席をみた。
 辻が、ちょうど小野に何か耳打ちをしていた。他の女に目移りしているのをみられて、機嫌をとっているようにしかみえない。手に手を重ねたり髪を撫でたり、なだめすかそうとしている。
 小野は、辻の肩にすこしもたれかかって、何度か頷いた。やはり、二人は恋人同士なのだろうか。確信はもてなかった。二人は、入社時からモテていたのに、彼氏ができたという噂は聞いたことがなかった。
 彼女に話しかけられるわけもない。手持ち無沙汰なので、残りの料理を食べることにした。ちょうど、追加で注文したラムチョップとムール貝のワイン蒸しが届いた。
 辻がスタッフに声をかけ、桃のサングリアをデキャンタで頼んだ。甘そうなので、僕は、辛口の白ワインをグラスで頼んだ。
「さくらさん」
 小野が話しかけた。彼女が顔をあげる。
「カードに書いてあったので……間違ってました?」
「あってます」
「話すことでスッキリできるなら、協力しますよ」
 小野に柔らかな口調で言われると、心を開きたくなるかもしれない。ただ、そばに僕がいるから難しいだろう。そう思ったのに、彼女は「聞いてもらえますか?」と言った。辻は「どうぞ、どうぞ」と、身を乗り出した。「今日、ある男性と約束をしていたんです」
 はっきり言われると血の気がスーッとひいて、軽く目眩をおこした。
「彼氏?」
 辻の質問に、彼女は否定で返した。あんな風に泣くくらいだ。彼女はその男のことが好きなのだろう。
 僕は、とにかく意識をそらしたくて、テーブルの上の料理に手を伸ばした。リゾットを引き寄せると「それ、さくらさんの」と、辻に止められた。「足りないなら頼むよ」と、言われる。僕は、断った。口を動かさないと、落ち着かないだけだ。プレートにはりついた生ハムを、フォークでこそぎとる。
「約束したのは、二ヶ月くらい前だったんです」
 ほとんど会えなかった頃だ。僕はひっかかりを感じて、眉根を寄せた。自分の記憶に検索をかけてみる。
「忘れちゃったのかな」
「リマインドは当然したよね」
 彼女が「誘った時に、絶対行くって言ってくれたから、信じようと思ったんです」と言った。
 覚えはなかった。となると、やはり別の誰かということになる。
「今日は、記念日だったから、憶えててくれるんじゃないかって、期待して」
 記念日……
 今は、10月の頭だ。
 僕には、心当たりがあった。
「今日、何日?」
 わかっているのに、誰ともなしに聞いた。辻が答えてくれた。
 僕はメッセージアプリを立ち上げて、彼女とのやり取りを遡っていく。二ヶ月前、最後の追い込みで走り回っていた頃だ。別れを切り出された後から、たくさんのメッセージを送った。僕の一方的な言葉で溢れている。スクロールしているのになかなか二ヶ月前にたどり着かない。
「仕事の約束でも、忘れてたの?」
 辻が心配して声をかけてきた。僕は聞こえないふりで、画面の文字を目で追い続けた。そして、関連する箇所をやっとみつけた。
『三周年記念の日には、時間作ってね。行ってみたいお店があるから、一緒に行こう』
 そのあと、この店のHPのURLが貼ってある。
『その頃なら時間取れるはず。絶対行くよ』
『19時30分なら、来られそう?』
『うん、その時間なら余裕』
 このやり取りをみても、自分が返した言葉だと実感がなかった。それでも、文字で残っている。
「さくらが待ってたのって、僕なの?」
 横顔に問いかけた。
 彼女が、ゆっくりとこちらに顔をむける。
「本気でやり直したいなら、今日はここに来てみるはずだって……」
 あれだけ、やり直したいと訴えていたくせに、記念日の約束は記憶になかった。
「来てくれると思ってたのに」
「ごめん」
 謝るしかなかった。彼女との約束を忘れて、同じ店に同僚と飲みに来ていたのだから。
 気づいた時、どんなに辛かっただろう。僕が嫌がらせをしていると、疑われてもしかたない状況だった。
「本当に忘れていたんだ。他意はなかった」と、言った。
「偶然なのは、わかってるよ」
 僕が来ると信じて待ってくれた彼女の思いを踏みにじったことには変わりない。
 彼女を幸せにしたいと思っていた。それには、仕事で成果をあげ出世していくしかないと、寝る間も惜しんで働いた。目の前のチャンスを逃したくなくて、彼女とほとんど会わずに……話すら満足に聞かずにいた。
 彼女のために……。
 ただの独りよがりだった。
「えっと、話が見えないんですが……」
 辻が、話しかけてきた。
 もう、隠しようがない。「こちらが、別れた彼女」と、手の平で彼女を指し示す。
「私が待っていたのは……」
 彼女の言葉をかき消すように「えー!」と、辻と小野が声をあげた。
「なんか、よくわかんないけど、もう、飲もう!」
 辻が、乾杯を求めてきた。手近なグラスを手にとって、それぞれ軽く当てあう。
 せっかく与えられた再会だ。少しでも楽しまなければとも思う。
「お料理が冷めちゃった」
 残念そうに呟くのが聞こえてきた。
 また、一緒に来ようと、言える立場ではなかった。だけど、誘いもせずに諦めるのは嫌だった。
「ねえ」と、話しかけた。
 彼女が僕をみた。「なに?」と、唇が動く。
「僕とまた……会ってくれるとか……ない?」
 彼女が首をかしげる。
「今度は二人で来たいなあって、僕は思ってる」
 まっすぐに見つめて答えを待つ。
 彼女は、「考えとく」と言って、微笑んだ。                                                

                         <了>

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