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トイカメラで色街探訪 玉ノ井

ふとトイカメラ持って色街跡を歩こうと思い立ち、「玉ノ井」へ。

玉ノ井

って訝しげに感じた方多いかと思いますが、現在でいうところの東武伊勢崎線「東墨田駅」付近。
もともと「東墨田駅」は「玉ノ井駅」という名前で、現在の駅標に小さく(旧玉ノ井)と表記されています。
永井荷風『墨東奇譚』や滝田ゆう『寺島町奇譚』などにも登場する色街のことで、関東大震災で焼失した浅草の私娼街の業者が新たな営業地として移ってきたできたのが「玉ノ井」でした。
もともと水田が広がっていた場所で、あぜ道だったと思われる細い路地が迷路のようにはりめぐらされ、「銘酒屋」と呼ばれた店(飲み屋を装いながら娼婦を集めて春をひさぐお店)が密集し、路地の入口には「抜けられます」「近道」と書かれた看板が立っていたこともあって、その様子を荷風は「ラビランス」(迷宮)」と表現していました。
戦前には約500軒の銘酒屋が密集し、そこで働いていた娼婦は1000人いたと言われてますが、実際には所轄の警察でさえも把握しきれてないほど多かったとも言われてます。
しかし、東京大空襲で玉ノ井は焼失、当時487軒、1200名の娼婦が焼け出されたといいます。
焼け残った業者の大半は、そこから南へ1㎞ほどにある焼けなかった住宅地へ移転し、後に「鳩の街」と呼ばれる赤線街となり、残りの業者はいろは通りから北側のこれまた焼け残った住宅を転用して、新たに「玉ノ井」として営業を再開します。
戦後は120軒が営業していたそうですが、新興赤線の「鳩の街」と比べると地味な色街だったようでした。

戦前の玉ノ井と戦後の玉ノ井の位置関係をざっくりと。

因みに、同じ「玉ノ井」という名前の色街でも戦前と戦後では位置関係が全く異なっており、戦前の「玉ノ井」は「いろは通り」の南側、一方で戦後の「玉ノ井」は同じ通りの北側にありました。
戦前の「玉ノ井」の痕跡は戦災で焼失してしまったためほとんど残っていませんが、戦後の「玉ノ井」の痕跡は若干ながら残っています。
そこで、今回はDiana Miniを持って戦後の赤線街だった「玉ノ井」の痕跡を歩きました。

狭い路地に残っている緑色のタイルが残っている一軒。
往時はこうした建物がびっしりと並んでいたそうで。


路地に対して斜めに切り取られた入口、庇にはアールの衣装が見られます。


腰周りに石材を用いてる一軒、2階の外観が明らかにカフェー風のそれ。


注意して歩かないと見逃してしまいそうな細路地に残るタイル張りの一軒。
遊客の目を引かせるためにタイルと円柱で目立たせていたのだろう。


壁に円柱が何列も並ぶ一軒。


美容室の看板が掲げられている一軒も残っています。
娼婦たちは客相手にするわけですから、髪を整える場所が必ずあったことでしょう。


昭和33年の売春防止法施行で赤線は廃止され、「玉ノ井」のカフェー街も一斉に廃業となります。
今では下町の住宅地ですが、そんな中に飲み屋が残っているのも往時の残滓といえるでしょう。


所々に虫食いのように広がる空き地。
最近まで往時の名残りとされるカフェー建築があったのでしょう。
次々と取り壊されて、その跡には新たな住宅が建つようになり、玉ノ井の名残りはわずかしか見られない。


もっとも、町会にも「玉ノ井」の名前が残っているように、住民たちにとっては思い入れがある名前なのでしょう。
実際に東武の「東向島駅」には括弧書きで(旧玉ノ井)とあるのですから。

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