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規定される内部と世界の広さと宇宙の外

4年生になった娘と最近よく原宿にお買い物に行く。
雑司が谷に住んでいるので、自分たちの住んでいる雑司が谷から徒歩圏の繁華街といえば池袋なのだけど、原宿には池袋にはない魔力のあるコンテンツが満載だし、電車に乗って出かけるという行為にも娘たちにとっての楽しさは池袋とは比較にならない充実ぶりである。池袋には路面に面白い店がない。ここが圧倒的に原宿や渋谷とは違うところ。歩いて楽しいまち。

僕が子供の頃住んでいたまちというと、福岡県北九州市八幡西区紅梅町という工場町。幼児期から小学校1年生の時まで住んでいた木造の平屋長屋から、当時、父が購入した分譲マンションに引っ越してから高校一年までの10年以上はそのまちにいた。

僕の小中学校のころの行動範囲といえば、紅梅町とそこから徒歩でいける繁華街である黒崎のまち。商店街の端の住宅地との境目に通っていた黒崎小学校は位置していて、そこまでがいわゆる僕の地元である。
中学生になると、僕たちは汽車に乗って小倉へ出かけた。本当は電車なのだけど八幡のまちから小倉には西鉄という私鉄の路面電車が走っていたので、路面電車と区別するためになぜか北九州では国鉄(JR)の路線のことを汽車と呼んでいた。黒崎から小倉まで20分くらいの鉄道の旅。小倉には黒崎にはないワクワクがあった。洋服や靴や文房具などの雑貨を求めては1〜2ヶ月に一度の小倉(魚町)への買い物は僕らにとってのなによりも楽しみだった。

高校生になると僕らの地元は小倉までになった学校が終わった放課後に小倉まで出かけて行ってというのは比較的簡単にできるようになる。そうすると僕にとっての外部は福岡のまちだった。黒崎から天神行きの高速バス(片道1000円)に乗って博多(福岡のことは博多と呼ぶ)出かけて行って福岡の大名や天神の古着屋さんやCDショップを巡って一日中歩き回った。

そんなちょっとイケてる高校生を気取っていた僕にとってのさらなる圧倒的な外部が東京だった。「自分たちの日常生活とは、まるっきり不連続な場所」が僕にとっての「東京」。いってみれば宇宙の外側である。当時1990年代の前半の17歳にとってそこは紛れもなく憧れの場所だった。なにかがあると思っていた。

前置きが長くなってしまったけど、子供にとっての自分の生きている世界の広さとその外の外部を規定しているのはもちろん通っている学校というわかりやすく共同体としての社会があるけど、僕は遊び場としての繁華街にそれを見出している。僕にとっての成長は都市のスケール。

紅梅町ーー黒崎ーーー小倉ーーーー博多ーーーーー(宇宙ここまで)ーー東京

雑司が谷ー池袋ーーー原宿・渋谷

娘たちとの週末のお買い物を通じて、僕はこの↑の図のような対称性を非常に強く感じたのである。都市の絶対規模ではなくて自分の暮らしているまちを基準にしたときの都市のスケールと距離感。
紅梅町=雑司が谷、黒崎=池袋、原宿・渋谷=小倉。
そしてここで重要なのは、東京で生まれ育つ子供達には、博多と東京に該当する外部空間が存在しないのである。それは海外に求めるしかないのだけど、そんな感じの外部空間が海外の場合、身近に行ってみることもできないのである。世界の認識における博多と東京の不在は僕にとってはかなり痛い欠落である。なぜかというと、外部から得られるであろう情報量と文化的な質量差を想定して感じずに成長する子供には、ある部分で夢の欠落を意味しそうな恐怖感にかられるからだ。

「自分は意地でも東京いってみたい。」

これが、僕が勉強したモチベーションだった。親元から一ミリでも遠くに離れて、圧倒的な情報量と人の量と金の流れの中に身を置いてみたいというモチベーション。

そこらあたりを東京やその近郊で生まれ育った同年代にお話しを聞いてみたいなって最近思っている。






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