見出し画像

「月が7割蒸発したらどうなるの」と彼女は聞いた

(2016年10月31日作成)

「ねえ、月が7割蒸発したらどうなるの」
彼女はいつも、猪突に変な質問をしてくる。僕は、いつもどおりに返事をする。
「また、どうしたの」

大きなガラスを通して車の行き来が視界に入る、このカフェのこのテーブルが僕たちのお気に入りだ。

僕たちは同い年で、大学3年生のときに夏の短期バイトで知り合い、付き合い始めた。付き合ってから半年が過ぎたくらい。
お互いの癖は大体わかっている。彼女はカプチーノを2口飲むと、話を変えてくる。

「だから、月が7割蒸発したらどうなるのってこと」
「なんだよ7割蒸発って」
「7割蒸発して三日月っぽくなるの」

彼女が言うのは、何かの漫画でそういう設定が出てきたらしい。彼女は文学部なのに、いや文学部だからこそなのか、そういう漫画的な設定がどれほど現実的か気にすることが多いらしい。重ねて彼女が尋ねる。

「月ってさ、満月のときに子どもが産まれやすいって言うじゃない。あれって本当なの?」
それも漫画の知識らしい。
「本当だったら統計データが出ているはずだけど聞いたことないなあ。あ、でも、牛だと満月の少し前が一番産まれやすいってニュースで見たなあ」
「ふーん。牛ねえ……」
彼女はカプチーノが入ったカップを口に近づける。さっさと自分の質問に答えろという合図だ。僕は答えるしかない。

「7割蒸発って、質量が7割なくなるってことだとしたら、地球との位置関係も変わるんじゃないかな」
「あー確かに。月と地球ってお互いに重力でバランスをとっているんだっけ」
「重力というか引力かな。月の質量が7割もなくなれば公転スピードとか距離とか変わるんじゃないかな」
「どれくらい?」
「どれくらいって……どれくらいだろう」
「聞いているのはこっちなんですけど」
「てか、僕、理系だけど生物学科だよ。物理とか地学とか詳しくないよ」
「でもちょっとは高校でやったでしょ?」
「やったけど4年も前のことなんて覚えてないって」
「4年前なら思い出せばなんとかなるんじゃないの? 私なんて最後に物理やったの高1だよ。6年前だよ」
2年しか違わないんじゃ……と言おうと思ったけど僕が不利になるだけだから黙ってコーヒーカップを口に運んだ。

そう。そういうことなんだ。

確かに4年前のことなら、僕は高校の教科書を引っ張り出せばなんとかなるかもしれない。でも、彼女は高校で文系を選択してからは、生物の授業しか受けていない。物理は高校1年にやったっきりだ。教科書は捨てているかもしれない。僕が古文とかの教科書を捨てたように。

彼女はたまに、文系選択したことを後悔するようなことを言う。後悔というほど、今やっていることが嫌ではないようだけど、もうちょっと理系のことに触れたいと思っているようだ。

彼女の卒業研究は、フィクション作品の設定が現実とどれほど乖離しているか、そこに作者のどのような意図が反映されているか、というものだ。フィクションを考察するときには、確かに科学的知識が求められることがある。そういうとき、科学、特に物理の知識がもっとほしいと、もどかしい思いをするようだ。

「じゃあ、それは次までの宿題で」彼女は僕を指差した。
「はあ?」
「いいじゃないですか、先生」
「いつから先生になったんだよ」
「そこをなんとかお願いできないでしょうか」
「じゃあ次回チーズケーキはおごりで」
「オッケー」

それからはとりとめのない話をして、僕たちはカフェを出た。彼女と別れた後、僕は道を歩きながら一人で考えた。

なにかと文系・理系と言われているけど、結局は高校で文系と理系のどちらを選んだかくらいの違いしかない、と最近思うようになってきた。

彼女は文系だけど理系の知識を必要としている。僕は理系だけど、レポートを作るときなどは文系の技術があればと思う。彼女に言わせれば、文系の技術とレポートを書くのは関係ないらしいけど。でも今思い返せば、教科書を捨ててしまった古文は、文章がどう組み立てられているか学ぶには最適な教材だったような気がする。

彼女は中学校の教員を目指している。国語の先生を考えているようだけど、他の科目も横断的に教えられるような先生を目指しているらしい。きっと、自分自身がもっと横断的にいろいろな科目を学びたかったから、その思いを生徒に伝えたいのだろう。

僕はどうなのだろう。とりあえず大学院の修士課程に進むところまでは考えているけど、それから先はまだ決めかねている。前に彼女から、教え方がうまいから先生に向いているよ、と言われたことがある。教職の授業はとっていないから先生は無理だけど、科学や研究を伝える仕事があれば考えてみようか。そんな仕事があるのかわからないけど。

参考資料

Yonezawa T et al (2016) Lunar Cycle Influences Spontaneous Delivery in Cows. PLos One 11(8): e0161735.


ここまで読んでいただきありがとうございました。サイエンスの話題をこれからも提供していきます。いただいたサポートは、よりよい記事を書くために欠かせないオヤツに使わせていただきます🍰